宮口村(読み)みやぐちむら

日本歴史地名大系 「宮口村」の解説

宮口村
みやぐちむら

[現在地名]浜北市宮口

麁玉あらたま郡に所属。新原しんぱら村の北西、三方原台地北東端の丘陵に立地する。鎌倉鶴岡八幡宮の「鶴岡社務記録」暦応元年(一三三八)六月九日条に「宮口郷」とみえ、幕府から鶴岡八幡宮に寄進されており、寄進状は京都から上杉憲顕が持参し、鶴岡若宮別当が請取っている。翌二年四月五日、宮口郷地頭職が相模国弘河ひろかわ(現神奈川県平塚市)地頭職とともに足利尊氏から鶴岡八幡宮に寄進されている(「足利尊氏寄進状」鶴岡八幡宮文書)。康正二年(一四五六)の「造内裏段銭并国役引付」によれば、内裏造営料として五月三〇日に後藤能登入道が「遠州小税田宮口段銭」分として二貫二二五文を納めている。天文一八年(一五四九)に井伊監物尉朝光が宮口にある興覚こうかく寺に母の菩提を弔うために、宮口郷の寺領一町七段を寄進している(「井伊朝光寄進状写」興覚寺文書)。同じ頃、宮口郷内に報恩ほうおん寺が、井伊谷いいのや龍潭りようたん(現引佐町)の開山である黙宗瑞淵によって開かれている(「開山黙宗大和尚行実」龍潭寺文書)。元亀三年(一五七二)一二月三日、武田信玄は奥山大膳亮吉兼に遠江進攻の戦功として「小野・宮口并あかさ」の三〇〇貫文を含め二千貫文を与えている(「武田信玄判物」奥山文書)。天正一七年(一五八九)徳川家康によって実施された検地により作成された龍潭寺領検地帳(龍潭寺文書)に、「龍潭寺末寺宮口之内報恩寺分」として、「平石方」の田九反一四歩、「平兵方」の田八反大一〇一歩、「次郎右方」の九反三二歩の計二町七反余が坪付されている。


宮口村
みやぐちむら

[現在地名]豊田市宮口町・宮上みやがみ町・みや町・しん町・天王てんのう町・町・白山はくさん町・太平たいへい町・汐見しおみ町・大池おおいけ町・貞宝ていほう町・久岡ひさおか町・丸根まるね町・高崎たかさき町・逢妻あいづま町・横山よこやま町・花丘はなおか

市域の西端に位置し、逢妻女あいづまめ川の右岸にある。「七州城沿革小史」に「宮口ニハ塩取ト云フ地アリ往古其処ニテ海水ヲ汲ミ塩ヲ取リシヨリ斯ク名附クト又塩附街道アリ宮口ヨリ塩ヲ送リ出スニ日々十頭以上ノ運送馬車カ通行ナリト云伝ヘアリ」とある。先土器時代の小清水こしみず小学校東遺跡、縄文時代の貞宝遺跡が知られている。

名古屋街道を猿投さなげ神社に向かう入口にあり、その参道口として地名が起こるともいう。


宮口村
みやくちむら

[現在地名]豊田市坂上さかうえ東宮口ひがしみやくち

ともえ川の支流仁王におう川の南にあり、標高三〇〇メートルを超える山々に囲まれ、真垣内まながいと仁王杉木すぎのきとともに、仁王川沿いに集落が開けている。寛文期(一六六一―七三)近世文書には「宮口村」と「西宮口村」が並んで登場することから、一時期村内で東西の区別があったと考えられるが、明治五年(一八七二)挙母ころも地区の西宮口と対比して、東宮口とよばれる。平安末―室町初期にかけての一名行基焼ともよばれる山茶碗や山皿が、六所ろくしよ山の六所神社東方二〇メートル辺りから出土する。


宮口村
みやぐちむら

[現在地名]牧村宮口

飯田いいだ川右岸の扇頂部に立地。左岸は北方きたがた(現上越市)、下流は水科みずしな(現中頸城郡三和村)、上流は山口やまぐち村。集落は宮口丘陵の山麓部沿いにあり、飯田川扇央部に水田が広がる。水吉みずよし・水科・法花寺ほつけじくぼ(現三和村)への四ヵ村用水や戸野目とのめ(現上越市)への重川じゆうかわ用水の水口である。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図では「西木分山浦分直江分梅林扱宮口村 上」とあり、本納七三石四斗四合七勺・縄高一一九石六勺、家一九軒・六六人。正保国絵図に村名があり、延宝七年(一六七九)の越州四郡高帳では高三〇九石九斗。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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