改訂新版 世界大百科事典 「日本主義労働運動」の意味・わかりやすい解説
日本主義労働運動 (にほんしゅぎろうどううんどう)
産業報国運動の先駆となった国粋主義的労働運動。始まりは1926年10月,石川島造船所で組織された石川島自彊組合である。当時の石川島は左翼の評議会(日本労働組合評議会)の拠点であった。これに対抗して結成された自彊組合は会社組合であるが,組合長の神野信一(同造船所職長)は安岡正篤の金鶏学院の一員で,〈産業立国〉〈労資融合〉をスローガンとする日本主義労働運動を提唱した。29年,自彊組合は横浜船渠,浦賀船渠の企業別組合の連合体,武相労働連盟に参加し,その主導権を握り,30年にはこれを日本造船労働連盟と改称,これを足場に労働界における勢力拡大を図った。だが神野らが狙った財閥系大企業の会社組合や総同盟などの同調は得られなかった。ただ,一貫して反総同盟(日本労働総同盟)の立場をとり,このころから国家主義的傾向を強めていた総連合(日本労働組合総連合)と提携し,32年に重金属工失業対策全国協議会,さらには国防献金労働協会を結成して,軍用機の献納運動を展開した。一方,33年6月には自彊組合を中心に10組合8440人で日本主義労働組合の全国組織,日本産業労働俱楽部を創立した。同俱楽部はメーデーを排撃して34年4月,天長節に第1回日本労働祭を行い,組織の拡大に努めたが,37年末で22組合1万8387人にとどまった。
これとは別に,満州事変後,既成労働組合内から国家社会主義や日本主義に転向し組織を分立させるものも少なくなかった。これら国家社会主義,日本主義の組合を総称して愛国労働運動と呼んだ。36年4月,総連合,産業労働俱楽部,新日本海員組合など15団体で愛国労働組合全国懇話会を組織したが,統一を欠き,脱退が相次いですぐに中央組織としての実態を失った。日中戦争開始後,産業報国運動の主導権は日本主義組合から半官半民の協調会,さらに政府へと移り,39年10月,産業労働俱楽部は〈結成の目的が一応達成をみた〉として解散し,自彊組合など傘下の組織も相次いで産業報国会に改組した。
執筆者:二村 一夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報