産業報国運動(読み)さんぎょうほうこくうんどう

改訂新版 世界大百科事典 「産業報国運動」の意味・わかりやすい解説

産業報国運動 (さんぎょうほうこくうんどう)

日中戦争の開始後,戦時体制下での労資関係調整策として出発した運動。略して産報運動ともいう。中央組織としては,民間組織である産業報国連盟の成立(1938年7月),内務・厚生省主導による大日本産業報国会への再編(1940年11月)を節目とする。当初,官僚側の戦時労資関係制度への構想は,労資一体の理念のもとに待遇問題をも協議しうる労資懇談制度を普及させることであった。しかし資本家側は,従業員に対する指揮命令権をあいまいにするような指導精神や待遇問題も協議対象とするような労資懇談制度には同意しなかった。そこで,この両者を調整し産業報国運動の推進力となったのが協調会であった。1938年2月,協調会は時局対策委員会を設置し,同年4月に労資関係調整方策を発表,それに基づき7月に産業報国連盟が創立された。その設立趣意書の中では〈陛下赤子〉としての皇国勤労観がうたわれ,指導精神の面では官僚側の意向を反映したものとなったが,各事業場ごとの単位産業報国会(従業員100人以上のところに設置を勧奨)のあり方については幅をもたせ,資本家側の意向もとり入れた。他方,労働組合の側は,こうした運動に対して労働組合会議系の一部が消極的抵抗を示したにとどまった。産業報国連盟の創立後,単位産業報国会の数は急速に増加したが,39年4月以降,運動は官僚主導へと移行しはじめた。まず地方長官(知事)を会長,各警察署長を支部長とする道府県産業報国連合会が組織された。

 40年11月に厚生大臣総裁とする大日本産業報国会が創立され,産業報国連盟は解散した。近衛新体制下での勤労新体制の具体化としてのこの再編成には,種々の労務統制令の施行に伴い,産業報国運動を労働行政全般の中核として位置づけるという狙いがあったと考えられる。そしてこの時期と前後して,鉱業,交通運輸,商業農業の各分野にも報国会が組織され,41年9月の時点では単位産業報国会数は8万を超え,会員数は540万人(うち工業部門400万人)にのぼったのである。また戦局推移に伴い,産業報国運動への位置づけも変化をとげた。41年8月,内務,厚生省は単位産業報国会を企業の職制と一体化した部隊組織とし,その下部に五人組制を置くという方針を打ち出した。産業報国運動は,当初の労資関係調整策的色彩を弱め,生産増強策としての色彩を強めていったといえる。このことは同時に,単位産業報国会の独自性の喪失を意味した。実際,この時期の目だった運動としては,産業報国会青年隊(25歳以下の男子全員を対象)の組織化が挙げられる程度である。さらに43年に入ると単位産業報国会は,おもに物資供給機関として機能することになった。他方,大日本産業報国会は42年7月に大政翼賛会の下部組織となったが,労働行政のなかでの位置づけはむしろ低下していった。このような実態を反映して,敗戦後の処理は迅速に行われた。大日本産業報国会は内部からの解散論もあり45年9月に解散,単位産業報国会も占領軍の命令に基づき同年12月中には大部分が解散した。
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世界大百科事典(旧版)内の産業報国運動の言及

【協調会】より

…当初は工場委員制度の普及,争議調停に力を注ぎ,ついで労働組合法制定に尽力したが,同法制定が挫折すると産業協力運動に力点を移した。戦時体制にはいると,産業報国,労使一体のイデオロギーのもとに産業報国運動を提唱,推進した。38年2月には〈時局対策委員会〉を設置し,同年7月には〈産業報国連盟〉を結成している。…

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