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日本赤軍 にほんせきぐん

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

日本赤軍
にほんせきぐん

新左翼系の過激派武装闘争組織。マルクス・レーニン主義を信奉する。1971年,共産主義者同盟赤軍派の重信房子を中心とする一派が「国際根拠地建設」を掲げ,レバノンの首都ベイルートに赴いてアラブ赤軍を結成。以降,パレスチナ解放人民戦線 PFLPとの共闘を通じて中東に活動拠点を築き,テロリズムを展開した。1974年に日本赤軍を名のる。おもなテロ事件に,イスラエルのテルアビブ・ロッド国際空港での銃乱射事件(1972。→テルアビブ事件),オランダのハーグのフランス大使館占拠事件(1974),マレーシアのクアラルンプールのアメリカ大使館占拠事件(1975),日本航空機をハイジャックしたダッカ事件(1977)がある。ダッカ事件では日本政府は超法規的措置により,人質の乗客・乗員と交換に日本で在監・拘留中の日本赤軍メンバーらを釈放することを余儀なくされた。1982年イスラエル軍がベイルートに侵攻したため,本拠地のベイルートから撤退した(→レバノン内戦)。2000年に日本潜伏中の最高指導者重信が大阪府内で逮捕され,翌 2001年に獄中から日本赤軍の解散を宣言した。(→ニュー・レフト

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朝日新聞掲載「キーワード」の解説

日本赤軍

重信房子被告(63)=殺人未遂罪などで上告中=が中心となって71年、革命拠点をつくる「国際根拠地論」構想の一環としてレバノンで結成された。当初パレスチナの過激派組織などと共闘関係を展開した。テルアビブ事件後も各地でテロを引き起こした。74年、オランダ・ハーグの仏大使館を占拠、75年、クアラルンプールの米国大使館を武装占拠。さらに77年にパリ発東京行き日航機をハイジャックしたダッカ事件と続いた。90年代後半からメンバーの逮捕が相次ぎ、重信被告も00年、大阪府内で逮捕された。他のメンバー7人は現在も国際手配されている。テルアビブ事件の岡本公三容疑者はイスラエル当局に逮捕され、終身刑を言い渡されたが、服役中に捕虜交換で釈放。後にレバノンへの政治亡命が認められた。

(2008-12-22 朝日新聞 朝刊 2社会)

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デジタル大辞泉プラスの解説

日本赤軍

国際テロ組織のひとつ。1972年設立の極左武装組織。共産主義者同盟赤軍派のメンバーで日本人の重信房子らが、「国際根拠地論」に基づき1971年レバノンにて「アラブ赤軍」を結成。その後、1972年に発生した連合赤軍による「あさま山荘事件」を契機に共産主義者同盟赤軍派と決別、組織名を「日本赤軍」に改称。以後30年間にわたりパレスチナで武装解放闘争を展開。1972年のテルアビブ空港乱射事件、1973年のドバイ日航ジャンボ機乗っ取り事件、1977年のダッカ日航機ハイジャック事件など、数多くのテロ活動を主導。1990年代よりメンバーの逮捕が相次ぎ、2000年には最高幹部の重信が潜伏先の大阪で逮捕。2001年、解散宣言を発表。1999年~2001年、米国FTO指定。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

日本赤軍
にほんせきぐん

1970年代から90年代後半にかけて中東パレスチナで活動した政治グループ。前身は共産主義者同盟赤軍派の国際根拠地建設部門。共産同赤軍派は「現代社会は帝国主義時代から社会主義時代への過渡期である」(過渡期世界論)を基本的な歴史認識として「世界革命戦争」「世界赤軍」「国際根拠地」という基本テーゼを掲げ、塩見孝也(1943― )、田宮高麿(たかまろ)(1943―95)らによって1969年(昭和44)に結成された。その後共産同赤軍派は「国際根拠地建設」路線の下で、1970年よど号ハイジャックにより田宮以下8名が北朝鮮、ピョンヤンへ向かった直後、政治局員重信(しげのぶ)房子(1945― )は偽装結婚して「赤軍派アラブ地区委員会」設立のためにレバノン、ベイルートへ出国し、アラブ赤軍を名のった。
 1972年連合赤軍による「軽井沢・あさま山荘銃撃戦」と、その直後に発覚した14名の「連合赤軍粛清」事件を契機に、重信らは共産同赤軍派と決別、独自の組織・活動を展開し、組織名を「日本赤軍」へと改称。それ以後は約30年間にわたって、新左翼系唯一の海外武装闘争組織としてパレスチナで武装解放闘争を展開した。
 1972年日本赤軍の存在を世界に轟かせた最初の闘争がイスラエル、テル・アビブ(パレスチナ名リッダ)空港襲撃事件であった。これはイスラエルによるディル・ヤシン村民254名虐殺に対して、岡本公三(1947― )、奥平剛士(つよし)(1956―72)、安田安之(やすゆき)(1958―72)の日本赤軍ゲリラがPFLP(パレスチナ解放人民戦線)との共同作戦として決行した報復奇襲作戦(死者28名、負傷者110名、ゲリラ側死亡2名、岡本は逮捕される)であった。この闘争論理は「武装闘争こそが最高のプロパガンダである」「虐(しいた)げられた者の語ることばは、銃以外になく、虐げられた者が心に抱くヒューマニズムは、武装闘争以外にない」(PFLPとの共同テーゼ)であった。当時、国内ではこの闘争に呼応して現地と国内支援グループが事件に先立って共同編集したニュース映画『赤軍――PFLP・世界戦争宣言』(1971)の国内遊説キャラバン隊が編成されたり、国際連帯集会が日本列島を縦断するなど、大きなインパクトを与えた。
 その後日本赤軍によって展開された主な闘争は、1973年「被占領地域の息子たち」(パレスチナ解放人民戦線対外作戦部局指揮下の国際戦闘組織)との共同軍事作戦では日航404便をオランダ上空でハイジャック後にドバイ空港で爆破。1974年PFLPとの共同軍事作戦ではベトナム戦争石油中継基地だったシンガポール・シェル石油爆破、同時にクウェート日本大使館占拠。同年、オランダ、ハーグのフランス大使館占拠闘争では「日本赤軍ヨーロッパ蜂起計画」関連で逮捕された山田義昭(1949― )を解放。1975年マレーシア、クアラ・ルンプールのアメリカ・スウェーデン大使館占拠闘争では赤軍派や東アジア反日武装戦線メンバー5名を東京拘置所から解放。1977年ダッカ空港日航472便ハイジャック闘争では一般刑事犯を含めた5名を東京拘置所から「超法規手続き」によって「解放」。だが、このような一連の軍事作戦は必ずしも長期的展望をもっていたわけではない。武装・軍事闘争路線を遂行・継続していくことの困難性に関しては「自己犠牲と献身」「革命的敗北主義」「英雄主義」を前提にした「国際主義闘争路線」であったと総括、やがて、中東全域における政治的軍事的力関係が変化するなかで、アラブにおける拠点維持も困難になり、武装闘争路線も否定されていく。
 その後、日本赤軍から「人民革命党」への組織再編過程で、メンバーの逮捕も相次ぎ、2000年(平成12)リーダー重信の帰国・逮捕に及んで日本赤軍は解散を余儀なくされた。解散宣言の中で重信は「徹底した民主主義闘争路線への転換」を提起した。なお、「重信解散声明」以後も現地に残留したメンバーの所在や活動の実態は知られていない。[蔵田計成]
『重信房子著『十年目の眼差しから』(1983・話の特集) ▽重信房子著『大地に耳をつければ日本の声がする――日本共産主義運動の教訓』(1984・亜紀書房) ▽日本赤軍編著『日本赤軍20年の軌跡』(1993・話の特集) ▽重信房子著『りんごの木の下であなたを産もうと決めた』(2001・幻冬社)』

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