日本大百科全書(ニッポニカ) 「連合赤軍事件」の意味・わかりやすい解説
連合赤軍事件
れんごうせきぐんじけん
1971~1972年(昭和46~47)に起きた連合赤軍による一連の事件。連合赤軍は、1971年7月、「世界同時革命」を唱える赤軍派と、「一国革命」論にたつ京浜安保共闘の合体によって結成された「軍事組織」であり、群馬県の山岳地帯を中心に軍事訓練を重ねていた。1972年2月、警察の山狩りにより最高幹部の森恒夫(1944―1973)、永田洋子(1945―2011)が逮捕されたあと、坂口弘(1946― )ら5名が軽井沢の河合(かわい)楽器保養所「あさま山荘」に管理人の妻を人質にとって立てこもった。警官隊との間で10日間に及ぶ攻防戦が行われたが、2月28日警察側の突入によって人質は救出され、5名は逮捕された。その間、坂口らの銃撃により警官2名、民間人1名が死亡した。事件の全経過はテレビで中継され、全国民の耳目を集めた。あさま山荘事件の落着後、連合赤軍内部で前年以来、山岳基地を中心に「総括」と称するリンチ殺人が行われていたことが判明した。森と永田の決定により「党規違反」の名目で処刑された14名の「兵士」の死体が発掘され(1972年3月)、内外に強い衝撃を与えた。以後、新左翼諸党派は混迷の季節に入った。このような異常行動の背景としては、指導部にあったエリート意識、連合組織であるがゆえの路線上の対立などがあげられている。主犯格のうち、森は翌1973年1月東京拘置所で自殺。1983年6月東京地裁で永田、坂口に死刑、「兵士」植垣康博に懲役20年の判決が下された。1986年9月東京高裁は被告側の控訴を棄却、1993年2月最高裁は東京高裁判決を支持する判決を言い渡した。永田は2011年(平成23)2月に東京拘置所内で病死した。
[小田部雄次]