日清講和条約(下関(しものせき)条約)第6条の規定により結ばれた条約。1896年(明治29)7月21日調印、同年10月20日批准書を交換して発効した。日本は領事裁判権、協定関税、最恵国待遇を獲得して欧米と同一の特権を掌握し、これを足場に中国市場に進出した。1903年(明治36)10月8日には、日清両国人の共同経営事業についての規定、日本人の登録商標・著作権保護の規定などを定めた追加条約を締結した。五・四運動以後、中国国民の反帝運動が盛んとなると改訂もしくは廃棄が主張され、28年(昭和3)7月19日中国政府は廃棄を通告、日本は条約改訂を応諾し、30年5月6日関税協定に調印し、中国は関税自主権を回復した。
[藤村道生]
『藤村道生著『日清戦争』(岩波新書)』
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日清戦争後の1896年(明治29)7月21日に調印された条約。日清講和条約第6条の規定にもとづき締結された(10月発効)。日本は領事裁判権・協定関税・最恵国待遇など日本に有利な不平等条項を獲得し,中国市場進出の足場を得た。1928年(昭和3)中国国民政府は廃棄を通告したが改定条約交渉には応じ,30年5月6日に日華関税協定が結ばれた。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…当初のイギリス租界,フランス租界は,おのおの0.56km2,0.66km2にすぎなかったが,最も拡大したときにはおのおの22.60km2,10.22km2に達した。日本も1896年の日清通商航海条約で,上海をはじめ中国各地に租界設定の権利を得,天津や漢口には実現させたが,上海では共同租界の拡張の中に含められ,独立した日本租界は実現しなかった。しかし呉淞江北岸(虹口(ホンキユウ))を中心に居住がすすむと,日本人は上海で最も多い外国人となった。…
…その反面,大日本大朝鮮両国盟約(1894締結。のち1910年に日韓併合条約),日清通商航海条約(1896締結)により,日本は中国と朝鮮に不平等を強いた。(3)第3期は近代的法体制の確立期であり,1899年の法典の全面実施と改正条約の発効に始まり,1918年の米騒動に至る。…
※「日清通商航海条約」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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