日本人のアメリカ移民の制限協約。1907年11月から08年2月に,林董(ただす)外相とT.J.オブライエン駐日アメリカ大使との間で交換された7通の書簡,覚書で成立した。当時,アメリカやカナダ在住の日本人移民に対する襲撃事件が頻繁に発生していたため両国政府は,日本人の渡航を制限するように要求していた。協約の主旨は,日本人のごく限られた者にのみ渡米を認めるというものであった。すなわち,〈以前ニ合衆国ニ定住セル者又ハ此等ノ者ノ両親,妻若ハ二十歳以下ノ子供ヲ除ク外一切合衆国大陸ニ通用スヘキ旅券ヲ発給セサルヘシ〉とあった。この結果,排日の動きはいちおう静まった。この協約は24年に排日移民法が制定されるまで続いた。
→排日運動
執筆者:臼井 勝美
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日本人の対米移民制限に関する紳士協約。アメリカのハワイ属領制実施(1900)以後激増した日本人移民排斥問題をめぐって日米関係が緊張し、アメリカは、同国内での厳重な移民制限法制定の動きを抑えるため日本による自主的渡航制限実施の必要性を説いた。かくて1907年(明治40)11月から翌年2月の間に日米間に七篇(へん)の書簡・覚書が交換され、日本側は、再渡航者、在米移民の両親・妻子、学生、商人を除く新規移民をすべて自主的に禁止した。のち、写真結婚による渡米婦人問題が排日論議の的になったが、1924年(大正13)、帰化不能外国人の入国を禁じた排日移民法の成立で本協約は廃棄された。
[小林幸男]
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…彼の対外政策は,パナマ運河地帯獲得の際の強引なやり方や西半球諸国に対する干渉権の主張など,帝国主義的であったが,東アジアやヨーロッパにおける強国間の勢力均衡を重視し,日露戦争やモロッコ紛争の収拾に積極的に活動したので,彼はそれらの貢献によってノーベル平和賞を受けた。また日露戦争後,サンフランシスコで日本人生徒差別事件が起こると,彼は移民排斥問題が両国の紛争に発展しないよう,日本政府に移民の自主規制を求める(1907年日米紳士協約)一方,サンフランシスコ市に日本人生徒の差別を撤回させた。 大統領を2期務めた後,彼はしばらく政治から遠ざかっていたが,後継者タフト大統領の政策にしだいに批判的になり,〈ニューナショナリズム〉の旗印のもとに政界への復帰を宣言,12年には共和党の大統領指名をタフトと争い,敗れると革新党を組織し,革新的綱領をかかげて大統領選挙に出馬したが,民主党のウィルソンに敗れた。…
※「日米紳士協約」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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