日本人(読み)にほんじん

精選版 日本国語大辞典 「日本人」の意味・読み・例文・類語

にほん‐じん【日本人】

[1] 〘名〙
① 日本国の人。にっぽんじん。
※宇治拾遺(1221頃)一二「国守にかうかうのことをこそ、此日本人申せ、といひければ」 〔ロドリゲス日本大文典(1604‐08)〕
② 日本の国籍をもつ人。現行の国籍法では「日本国民」という。
※国籍法(明治三二年)(1899)一条「子は出生の時其父が日本人なるときは日本人とす」
③ アジア系黄色人種(モンゴロイド)の一つ。皮膚は黄色。毛髪は黒色の直毛。目には蒙古皺があるものが多く、虹彩の色は黒褐色。幼児には蒙古斑(児斑)がある。言語は、多くの方言を持つが単一で、日本語。日本の土地での人間の居住は数十万年前にさかのぼると考えられている(明石原人)が、石器時代人骨の研究から縄文人はいまの日本人につながる要素を持っているとする。日本人の構成には、北方、南方の要素がみられ、広く東洋各地からの渡来混合が考えられる。人類学的に、アイヌ説、コロポックル説などの先住民族説があったが、最近では石器時代から継続するとの説が強い。
[2] 評論雑誌。明治二一年(一八八八)、三宅雪嶺、井上円了、杉浦重剛らによって創刊。月二回発行。政教社発行。特に日露戦争前後、西欧主義に反発して国家主義的傾向の評論を多く掲載し、同四〇年以後「日本及日本人」と改題。

にっぽん‐じん【日本人】

※雲形本狂言・唐人相撲(室町末‐近世初)「日本人(ニッポンジン)居ますか」

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デジタル大辞泉 「日本人」の意味・読み・例文・類語

にほん‐じん【日本人】

日本国の国民。日本の国籍をもつ人。にっぽんじん。
人類学的分類で、モンゴロイドの一。形態的には中身長で、黄色の皮膚、黒色・直毛の毛髪をもち、虹彩は黒褐色。日本語を用いる。にっぽんじん。

にほんじん【日本人】[書名]

評論雑誌。明治21年(1888)政教社より創刊。明治40年(1907)「日本及日本人」と改題。

にっぽん‐じん【日本人】

にほんじん(日本人)

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改訂新版 世界大百科事典 「日本人」の意味・わかりやすい解説

日本人 (にほんじん)

日本国籍をもつ人の呼称であるが,通常は,日本列島に住んで日本語を話し,共通性のある文化と身体的特性をもち,さらにある程度歴史的な認識なども共有して互いに同胞意識をもつ人々(つまり一民族としての〈日本人〉)を指す。

現代日本人は世界の諸集団の中で見た場合,概ね中背(2008年度の文部科学省調査では,19歳の男性171.6cm,女性158.1cm)で,手足の遠位部(上肢では前腕,下肢では下腿)が相対的にやや短く,肌色は少し褐色を帯び,体毛は概して薄く,頭髪は黒色で直毛の比率が高い。また,鼻梁がやや低い扁平性の強い顔面をもち,眼は一重瞼が比較的多く,内眼角には蒙古ヒダが見られ,分離型耳垂(いわゆる福耳)がかなり多く,幼少期には蒙古斑が現れる,といった諸特徴をもつ。

 ただ,こうした形質にはかなりの地域差が見られ,例えば日本列島の両端部にあたる北海道のアイヌや琉球人では本州域の人々に比べて比較的体毛が濃く,波状毛や二重瞼,分離型耳垂,湿型耳垢(腋臭)の頻度も高い。また,例えば指紋では日本列島の東から西へと比較的シンプルな弓状紋が増える地理的な勾配を示し,血液型のA型因子でも西から東へと頻度が高まる傾向を示す。こうした地域差が生まれた背景には,各地の自然,社会環境による影響のほか,現代日本人に至るまでに周辺域から受けたかなり複雑な形成過程が反映された結果であろう。
アイヌ →琉球人

大陸に近接した洋上に島を連ねた日本列島の地理的環境も影響して,その形成過程には,かなり複雑な様相が見られる。

日本列島の地に,いつ頃から人が住み始めたのか,まだ不明な点が多いが,今のところ後期旧石器の存在から,遅くとも3,4万年前の更新世末期には人が居住していたことが確認できる。しかし,本土域ではわずかに静岡県浜北市(現,浜松市浜北区)の遺跡から人骨片が出土しているのみで,どこを起源とする,どのような特徴の人々だったかは良くわかっていない。唯一,沖縄では,港川人山下町第1洞穴人下地原(じもじばる)洞穴人ピンザアブ人白保竿根田原洞穴人が発見され,とくに沖縄本島南端の港川からは複数個体の全身骨格が回収されて(約1万8000年前のもの),鈴木尚や馬場悠男によって詳しい特徴が明らかにされた。それによると,非常な低身長(男性でも153cm程度)で,下肢に比較して上肢が華奢(きやしや)であること,また脳頭蓋の骨が厚く,低・広顔性が顕著で,眉間の突出,鼻稜の隆起が明瞭であることなどが報告されている。鈴木尚は,こうした港川人の特徴が中国南部の後期更新世人類化石である柳江人,および日本の縄文人にも類似することから,日本人の源流を大陸南部に求める考え(〈日本人河南起源説〉)を提唱したが,その後の馬場悠男らの詳細な分析により,港川人は柳江人よりもジャワ島ワジャク人やオーストラリア先住民などに近いとの指摘がなされている。一方,旧石器文化における大陸との関係を考慮すると,日本列島の旧石器人の源流は南方だけではなく,朝鮮半島や北の沿海州,樺太経由の人の流入も想定される。とくに最終氷期に大陸と繋がった北海道ではシベリア起源のマンモスも発見され,更新世人類が細石刃文化と共にこのルートで流入した可能性が高い。しかし,大陸東北部では特徴のわかる化石人類が未発見であるため,北方ルートの人の流入がその後の日本列島人の形成にどのような影響を与えたのか,具体的な様相は不明のままである。
日本更新世人

氷河期の終焉と共に日本列島は大陸から離断され,ほぼ時を同じくして土器の製作も始まって縄文時代へと移行するが(約1万5000年前),この時代に列島で狩猟・採集生活を送っていた縄文人は,後世の日本人とは大きく異なった特徴をもっていたことが明らかになっている。資料の多い縄文時代後半期の人骨所見によると,かなり大頭ながらやや頭高が低く,顔面は低・広顔,低眼窩,広鼻傾向が顕著で,鼻骨の彎曲が強いために鼻筋の通った彫りの深い顔立ちをもつ。また眼窩上縁が直線的で,頬骨や下顎角が横に張り出し,全体的に四角く厳つい顔貌を見せる個体が多い。噛み合わせは鉗子状咬合で,一般的に整然とした歯並びをもつが,咬耗(こうもう)の程度が強く,咀嚼(そしやく)以外にも歯を酷使したことを窺わせる鞍状の不整な摩耗などが多く報告されている。歯のサイズが現代人に比べてもなお小さいことも意外な事実として知られ,弥生時代以降の人々とは異なって,比較的シンプルな形態を特徴とするスンダ型歯列(最終氷期に東南アジアに広がった大陸の名前を用いた呼称で,東南アジアの人々に多い)をもつ。また,とくに西日本の後晩期人骨では,上顎犬歯や下顎切歯を意図的に抜く抜歯風習の痕跡が頻繁にみられる。身長は概して低いものの(男性157~158cm,女性147~148cm),四肢末端部が比較的長いプロポーションをもつ。筋付着部の発達が強く,そのため例えば大腿骨では柱状大腿骨脛骨では扁平脛骨といわれる独特の断面形状をみせることが多い。

 こうした縄文時代後半の人骨で明らかにされた特徴は,時代をさかのぼるにつれてその程度を強める傾向があるとされ,早期~前期縄文人は,概してより低顔,低身長で華奢になり,歯の酷使例が多くなることなどが報告されている。ただ,かなりの変異もあるようで,全国的に資料が少ないために,地域性や時代変化の様相にはまだ不明な点が多い。大陸から離断されて間もない縄文初期の人々は,更新世に日本列島に流入した人々の特徴をより強く保持している可能性があり,今後資料が追加されていけば,ほとんど空白となっている旧石器人についても,有用な情報が得られることが期待される。

 いずれにしろ,同時代の大陸や島嶼部など周辺にはこの縄文人に類似した人々がみあたらず,当時の東アジアでかなり特異な存在となっている。なぜこのような特徴の人々が当時の日本列島に分布していたのか,その疑問の解決には縄文人の先祖となる旧石器人まで探索の手を広げる必要があろう。今のところ,沖縄の港川人やアジア南部との繋がりが指摘されているが,その一方で,遺伝子分析では大陸北部集団の関与も示唆されており,結局,縄文人の起源問題は日本列島人の最古層を形成した旧石器人に関する疑問と直結した課題となっている。
縄文人

紀元前600~800年頃,大陸から北部九州沿岸部へと水田稲作が伝播して弥生時代の幕開けを迎えるが,この日本の文化史上の激変期は,当時の列島の人々の形質にも大きな変化をもたらした。とくに北部九州・山口県地方から大量の弥生人骨が出土し,その研究を通して,現代日本人がもつ特徴の多くがこの時代を契機として日本列島に現れ,急速に各地に広がっていく様相が明らかにされている。この〈渡来系弥生人〉とも呼ばれる北部九州・山口県地方の弥生人は,縄文人に比べて非常な面長で,眼窩も上縁が丸みを帯びて高く,鼻骨の彎曲が弱いために鼻筋の通らない扁平な顔立ちを特徴とする。また歯のサイズが大きく,上顎中切歯の舌側面がシャベル状に凹んだ中国型歯列をもっている。身長は縄文人よりかなり高いが(男性163cm,女性151cm),前腕や下腿が相対的に短く,いわゆる胴長短足傾向の強い体躯で,大腿骨の柱状性,脛骨の扁平性も縄文人よりは弱い。

 こうした縄文人にはみられなかった特徴をもつ人々が新たに出現する一方で,例えば同じ九州でも西北部や南部には,縄文人の特徴を色濃く残した弥生人も確認されており,地域差が顕著になった時代でもある。その要因としては,縄文末期に大陸から水田稲作など先進文化とともに渡来した人々の遺伝的影響が想定されている。前述のように北部九州・山口県地方の弥生人は人骨形質で縄文人とは大きな,不連続ともいえる隔たりを示し,しかも当時の大陸各地には弥生人に似た人骨が多数見つかっている。また,この北部九州は弥生文化発祥の地であり,地理的にも大陸に最も近接し,水田や金属器など大陸由来の文化要素が日本で最初に,しかも高密度で検出されているので,その地域の弥生人が大陸からの遺伝的,文化的な影響を受けたと考えても不合理ではないだろう。さらに現代人を対象とした各種の遺伝学的な分析でも,日本列島の住人には地域によってかなりの違いがあり,西日本の人々は大陸集団との強い近縁性を示す一方,北海道のアイヌや南西諸島の人々は本土域の人々とはやや隔たりを見せ,しかもこれら両端の地域間には,ある程度類似する傾向のあることが明らかにされてきた。そしてこうした地域性を説明するモデルとして,現代日本人は遺伝的に見ていわば二重構造になっているという解釈,つまり,先住集団(縄文人)の住んでいた日本列島に,大陸から異なった遺伝傾向をもつ人々(弥生時代の渡来人)が流入し,西日本一帯ではその影響で変化したが,渡来人の影響が及ばなかった列島の両端域では,従来の形質が残されたのではないか,というモデル(二重構造モデル)が,有効な解釈として大方の支持を受けるに至っている。

 したがって,弥生時代の地域差はかなりの程度,この渡来人の遺伝的影響の大小によるものと考えられよう。北部九州に最初に入植した渡来人たちは,稲作農耕を基盤として急速に人口を増やし,次第に各地へ広がっていった様相が見られ,例えば山陰では島根県古浦遺跡や鳥取県青谷上寺地遺跡で,山口県の土井ヶ浜弥生人に近い特徴の人骨が出土している。また,山陽や四国ではまだ不明確だが,近畿地方でも奈良県の唐古鍵遺跡(弥生前期末)など数遺跡で北部九州弥生人に近い特徴をもつ人骨が出土している。東海・中部地方では,資料不足で不明確ながら一部の歯の特徴などに渡来形質の広がりが指摘されているし,関東では群馬県岩坪遺跡のように縄文人的特徴の人骨が見つかる一方で,沿岸部の神奈川県大浦山弥生人などでは,扁平な鼻根部など変化の兆しが指摘されている。おそらく沿岸部には西からの遺伝的影響が及び始めていた可能性が考えられよう。北部九州からさらに遠隔地にある東北では,岩手県アバクチ洞窟出土の幼児骨のように,一部に渡来系弥生人的な特徴も指摘されているが,これまでのところ明確な変化はみられず,かなり後世まで縄文人的形質が残存した地域とみなされる。稲作農耕が近世期まで伝わらなかった北海道では,さらにその傾向が強まり,縄文時代から色濃く引き継がれた特徴が,後のアイヌの形成に繋がっていったものと考えられる。
弥生人

弥生時代に列島各地に広がった変化の波は,古墳時代には一層,その広がりと程度を強め,例えば政治文化の中心となった畿内では,高・扁平顔に加えて短頭性など,現代畿内人に繋がる特徴が早くも現れ始めることが指摘されている。その後の奈良,平安時代の様相は資料がとくに不足しているため不明な点が多いが,中世の鎌倉~室町時代になると,長頭,低顔で扁平な鼻根部,強い歯槽性突顎(そっ歯)といった顕著な時代特性が見られるようになる。この変化は,鎌倉市の材木座遺跡から出土した人骨で鈴木尚により最初に報告されたものだが,その後,山口県や九州など各地で類似の時代特性が確認され,かなり汎日本的な現象であったことが知られるようになった。弥生時代の状況とは異なり,これらの変化は外来要素によるものではないだろうが,なぜ中世期にこのような変化が広範な地域で起きたのか,その理由はよくわかっていない。

 こうした身体形質は,江戸時代になってもある程度農村部や都市の庶民階層の人々に引き継がれるが,その一方で徳川将軍家に代表されるような一部の上層階級では,貴族形質とも呼ばれる著しい高狭顔化が起きており,全体的に見て次第に現代人に近づくような変化傾向を見せる。日本人の身長はこの時期に最も低くなった模様で(男155~156cm,女147~148cm),一般的に華奢な四肢骨をもつ人が多く,歯と顎骨のサイズの不整合による乱杭歯の人も目立つ。また,とくに都市部では各種のストレスマーカーの頻度が高まり,結核や梅毒の痕跡も珍しくなく,少なくも庶民階級の人々はかなり厳しい生活環境下にあったことが窺える。

 明治時代に入り,文明開化による生活環境の激変に伴って,日本人の身体形質にも急激な変化が引き起こされた。身長が10cm以上も伸び,著しい短頭化,高・狭顔化も起きて,わずかな期間に日本人はその外観を大きく変えてきたが,近年ようやくその変化傾向にも鎮静化が見られるようになった。この間,地域間の人の移動が増えて通婚圏が拡大し,都市部への人口集中なども起きたが,それでもなお日本各地の住人は多少の地域性を保持しつつ現在に至っている。
近世人 →古墳人 →中世人
執筆者:

現代日本人の様々な遺伝マーカーは,朝鮮半島や中国東北部の集団との類似性を示しており,大筋ではこれらの地域集団と,成立の歴史を共有していることが示唆される。ただしY染色体DNAの構成は,これらの地域とはかなり異なっている。東アジア全域を見渡しても日本と類似の構成をもつ集団はなく,少なくとも男性に関しては周辺の地域集団とは異なる成立史をもっていると考えられる。

 現代日本人のもつミトコンドリアDNAの系統(ハプログループ)は,東南アジアから沿海州まで分布するものを含んでおり,日本人の源郷は,東アジアの広範な地域に広がっていることを示唆している。また核DNAを用いた研究でも,日本列島集団は少なくとも本州と琉球の二つの地域集団から構成されていることが明らかとなっており,日本人の遺伝的な多層性が示されている。このような日本人のもつDNAの多様性は,過去数万年間にわたって列島外の各地から到達した人たちがもっていた遺伝的な要素が積み重なって構成されたもので,過去の列島へのヒトの流入が相当に複雑であったことを反映したものだと考えられる。

 縄文人や弥生人のミトコンドリアDNA分析からは,双方が遺伝的な性格を異にする集団であることが判明しており,日本人の成立に関する定説である〈二重構造モデル〉を基本的には支持している。しかしながら北海道の縄文人のもつミトコンドリアDNAの系統は沿海州やカムチャッカ半島の先住民のもつDNAと共通しており,DNA分析からは二重構造モデルのいう縄文人の南方起源説は否定される。また,アイヌ集団には,オホーツク文化人のDNAがかなり流入していることもわかっており,彼らがこれまでは考えられていたような縄文人の直系の子孫ではないことも示唆されるようになっている。
執筆者:

日本人 (にほんじん)

政教社発行の雑誌。東京大学出身の三宅雪嶺井上円了らと札幌農学校出身の志賀重昂,今外三郎らの若手知識人によって1888年4月創刊された。その主張は,藩閥政府の推進する欧化政策に反対し,〈国粋〉を〈保存〉しようとするナショナリズムにあった。陸羯南の新聞《日本》とは思想的にも人脈的にも密接な関係をもち,ともに明治中期の言論界を指導した。政治的には対外硬の立場をとり,その激しい反政府論のためにたびたび弾圧を受けた。このため1891年から93年には身替り雑誌《亜細亜》を発行した。日清戦争後は,志賀重昂が政教社を離れ,実質的に三宅雪嶺が雑誌を主宰するようになった。1906年,新聞《日本》が伊藤欽亮の手に渡るや,旧日本社員と政教社は合併し,雑誌を《日本及日本人》と改題,みずからの思想的立場を守った。なお刊行は創刊以来3次にわたって断続して行われた。第1次は1888年4月~91年6月,第2次は93年10月~95年2月,第3次は95年7月~1906年12月である。
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百科事典マイペディア 「日本人」の意味・わかりやすい解説

日本人【にほんじん】

人類学上は,旧石器時代あるいは縄文時代以来,現在の北海道〜沖縄諸島(南西諸島)に住んだ集団を祖先にもつ人々。また法律上は,日本国に国籍を有する人々。多くは日本語を母語とし,身体的特徴として一般に皮膚の色は黄色,虹彩は黒褐色,毛髪は黒色で直毛,また幼児期に蒙古斑が現れることなどから,人種としてはモンゴロイド大人種に属していることは疑いない。しかしモンゴロイドはいくつかの集団にわかれており,これらの集団が日本列島において混じり合い,現在の日本人が形成されていった過程は必ずしも単純ではない。現代においてもアイヌ,本州日本人(四国・九州を含む),南西諸島人の身体形質の間にはかなりの偏差がみられ,本州人と一括される人々においても地域や時代によって明確な変異が指摘できる。こうしたことから現在の日本列島に渡来し,日本人形成に主要な役割を果たしたのがどのような人々であったかについては古くから諸説があり,速断できないものの,以下の仮説が現在有力である。まずウルム氷期にアジア大陸から縄文人の根幹をなした後期旧石器人(W.W.ハウエルズの分類によれば古モンゴロイド)が渡来し,氷期後に自然環境が緩和されて比較的安定した生活が始まると,日本列島全域の縄文人の骨格は頑丈となり,独自の身体形質を獲得していった。やがて縄文時代終末期から弥生時代にかけて再びアジア大陸から新石器人(寒冷地適応をした新モンゴロイド)が西日本の一角に渡来する。渡来地域では急激に新石器時代人的な身体形質が生じたが,渡来民が直接及ばなかった地域では弥生時代にもなお縄文人的形質をとどめた。その後古墳時代から奈良時代にかけて本州(四国・九州を含む)においては混血が進み,徐々に均一化の方向に向かったが,地理的に隔離された北海道や南西諸島の人々は文化の変動に対応した身体形質の変化はあったものの,縄文人的特徴が残されている。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「日本人」の意味・わかりやすい解説

日本人
にほんじん
Japanese

日本列島に居住し,モンゴロイドに属する一民族。歴史的観点からは,約3万年前頃大陸から渡来して先土器時代縄文時代の文化を築いた先住民を,大陸から渡来した今日の日本人の祖先が駆逐したとする先住民説と,初期に渡来した人々が今日まで続いていて,現在の日本人を形づくっているとする単系説とがある。先住民説ではアイヌを先住民と考えている (小金井良精) 。単系説では,それぞれの時代に新しく渡来した人々との混血を考える複合人種説 (清野謙次) と,それぞれの時代の自然環境,文化の影響などによる身性の形態学的変化で説明する説 (長谷部言人,鈴木尚) とがある。文化的には,江南から由来する焼畑耕作,水稲耕作の文化のうえに,朝鮮半島を経由したアルタイ系支配者文化が重層して日本民族の基礎が形成された (岡正雄,江上波夫) といわれる。言語的にもアルタイ諸語との関係が指摘されるが,オーストロネシア系,オーストロアジア系,チベット=ビルマ系,ウラル系,さらに中国の漢字を中心とした要素など,さまざまな要素の混合が考えられる (→日本語 ) 。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「日本人」の解説

日本人
にほんじん

明治期~現代の総合雑誌。1888年(明治21)4月学術の応用を目的として政教社から創刊されたが,志賀重昂(しげたか)の国粋保存主義がしだいに社論となり,政治評論誌の性格を強めた。保守派の政府批判の一つの中心となり,しばしば発行停止処分をうけたため,91年6月代替誌「亜細亜(アジア)」を創刊。両誌並行して発行された。95年には志賀が去り,三宅雪嶺(せつれい)が中心となった。1907年1月新聞「日本」の社員を政教社に吸収し,「日本及日本人」と改題。しだいに経営難となり,中野正剛(せいごう)主宰の東方時論社との合併を進めようとした三宅が退社し,24年(大正13)1月「月刊日本及日本人」として再出発。昭和期にはロンドン海軍軍縮条約反対運動で目立った活動をしたが,45年(昭和20)2月廃刊。

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旺文社日本史事典 三訂版 「日本人」の解説

日本人
にほんじん

明治時代,政教社の機関誌
1888年に創刊。1907年『日本及日本人』と改題。三宅雪嶺・志賀重昂 (しげたか) らが欧化主義に対して国粋主義を主張。『国民之友』と並んで日本思想界に大きな影響を与えた。

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世界大百科事典(旧版)内の日本人の言及

【国民性】より

…個別的要因とは性別,世代,階層,学歴,職業,宗教,人種などを指し,これらを超越し,共通して存在する特性として国民性がとらえられる。ベネディクトは〈日本文化の型〉を考えるにあたって,分に応じて処する階層制に注目し,日本人の行動・思考を分析した。そして日本人の社会結合の原理としての人情と義理を認め,西欧的な絶対的道徳規準と罪悪感を基調とした文化に対して,道徳的絶対規準をもたずに恥辱をなによりも恐れるという日本文化の特性をみた。…

【指紋】より

…渦状紋は東洋系や南洋系に多く,蹄状紋はヨーロッパ系に多い。古畑指数(渦状紋対蹄状紋)は日本人は88前後であるが,朝鮮人,中国人は100以上,ヨーロッパ系は40~50前後である。さらに日本人の指紋型の内訳をみると,男性で弓状紋2%・蹄状紋53%・渦状紋45%,女性で弓状紋3%・蹄状紋57%・渦状紋40%程度である(これから前述の古畑指数と若干異なる数値が導き出されるが,これは資料出所の違いによる)。…

【政教社】より

…創立時の同人は,志賀重昂,棚橋一郎,井上円了,杉江輔人,菊池熊太郎,三宅雪嶺,辰巳小次郎,松下丈吉,島地黙雷,今外三郎,加賀秀一,杉浦重剛,宮崎道正の13名で,おもに東京大学,札幌農学校出身の新進知識青年であった。機関誌《日本人》(一時,後継誌《亜細亜》)を発行し,幅広い国粋主義を主張し,徳富蘇峰主宰の《国民之友》とともに明治中期の思想界を二分した。一方,高島炭坑坑夫虐待事件(1888)で坑夫救済のキャンペーンを展開し,また大隈重信外相による条約改正交渉に強く反対し,日清戦争に際して対外硬派の主力となって開戦の世論喚起に努めるなど,終始対外的には国権主義の姿勢を示しつづけた。…

【日本及日本人】より

…1907年雑誌《日本人》と新聞《日本》の伝統を継受するかたちで政教社の発行した雑誌。月2回刊。…

※「日本人」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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