日系アメリカ人(読み)にっけいアメリカじん

改訂新版 世界大百科事典 「日系アメリカ人」の意味・わかりやすい解説

日系アメリカ人 (にっけいアメリカじん)

アメリカ国籍の日本移民(永住者も含む)およびその子孫。戦争花嫁や戦後移民も含まれるが,大半は第2次大戦前に移住した人々とその子孫である。

 アメリカへの日本移民は,幕末の1866年(慶応2),海外渡航制限撤廃による出稼ぎ労働に始まった。集団的には1868年(明治1),当時まだ独立国であったハワイへの契約移民一団最初とされている(〈元年もの〉と呼ばれる)。一般に近代移民は,商品経済が農村に浸透することによって,農村共同体が破壊されるところに発生する。日本もその例外ではなく,アメリカへの移民は大部分が農村の自小作層が占めていたが,アメリカでの稼ぎが大きなことがわかると,しだいに上層農へと波及していった。そのほか,徴兵忌避者や留学生上がりのインテリも少なくはない(例えば幕末の薩摩藩留学生長沢鼎(かなえ)(1852-1934。本名磯永彦輔))。当時アメリカの個人所得は日本の10倍といわれており,アメリカは野心ある青年を引きつけたのである。その出身地は西南地方が多く,和歌山,広島,山口,福岡,熊本,沖縄などが目だっている。移民の大部分は出稼ぎを目的としており,故郷に錦を飾った者もたくさんいたが,かなりの部分はアメリカに定着し,〈迎妻帰国〉あるいは〈写真結婚〉により日本から妻を呼び寄せた。彼らの多くは移民会社の手によって送りこまれた。

 日本移民はハワイではサトウキビ栽培労働者として歓迎され,アメリカ西部では,排斥された中国移民の代りに肉体労働や農業に従事した。20世紀初頭までにはサンフランシスコサクラメント,に日本人街が形成され,日本人学校の設立(シアトル1902年,サンフランシスコ1903年)や日本語新聞の発行もみられた。一方,世紀転換期ころから,日本移民の低廉な労働力は人種的偏見も手伝い白人労働者の反発を買うようになり,日本が日露戦争に勝利すると太平洋岸諸州で黄禍論が唱えられ,ホーマー・リーの《無知の勇気》(1909)など日米戦争を予告する書物が多く刊行されて,排日の気運がたかまった。日本政府は日米紳士協約(1908)の締結や,アメリカ人の目に非人道的で奇異とうつった写真結婚の禁止決定(1919)など自粛策をとったが,諸州の外国人土地法(1913年のカリフォルニア州など)などにより経済活動は大幅に制限された。彼らは市民権をもつ二世の名義で土地を所有するなどの対抗策をとったが,これもしだいに禁止された。

 第1次大戦後,生産の合理化・機械化の進展により移民の重要性は低下し,またクー・クラックス・クランに代表されるような排外主義の風潮のなかで,1924年排日移民法が成立,日本人は帰化不能外国人として入国を完全に禁止された。太平洋戦争勃発当時,日系人の約3分の2はアメリカ市民権をもっていたものの,1942年には,大統領令に基づき軍事地域に指定されたカリフォルニアワシントンオレゴン,アリゾナ各州に居住していた日系人約11万人が敵性国人として強制的に退去させられ,内陸部のマンザナーManzanar(カリフォルニア州ロサンゼルスの北東350km)などの強制収容所に閉じこめられるに至った。同じ敵性国人でありながらドイツ系,イタリア系は強制退去の対象から除外された。一方,戦争中約3万3300人の二世(本土対ハワイの比率5:5)が従軍し,日本語に堪能な者は太平洋戦域に派遣された(戦争中に軍事情報日本語学校を卒業した二世は約6000人)。また二世からなる442部隊(1943編成)はヨーロッパ戦線における奮戦ぶりでアメリカへの忠誠のあかしをたて,戦後の日系人の地位上昇に貢献した。

 戦後,日系人の相当数は旧来の土地に戻り,戦争中の処遇に対する名誉回復が課類となった。全米日系市民協会Japanese American Citizens League(略称JACL,1930結成)の努力により,1948年強制立退き損害賠償請求法(請求期間は1950年まで)が成立,不十分な内容ではあったが,強制立退きの違法性が明らかとなった。一世の帰化もウォルター=マッカラン法(1952)により可能となり,外国人土地法も徐々に撤廃された(カリフォルニア州は1956年)。59年には州に昇格したハワイから日系最初の連邦議会議員(ダニエル・K. イノウエ)が誕生,人種・国籍による移民制限も65年の移民法で撤廃された。二世の教育普及率は高校・大学を通じ,全人種・民族の中で最も高く,このことが諸制限の撤廃,日米関係の好転とあいまって,日系人の社会的地位の上昇を可能とした。70年代に入ると,JACLの若い会員を中心に戦争中の強制立退きに対する補償と名誉回復を求める動きが起こり,80年政府は要求にこたえて調査委員会を設置,同委員会は1人当り2万ドルの補償金を支払うよう83年に勧告した。

 アメリカ市民としての意識が強く,日本語の話せない世代が増加するのにともない,世代間の断絶,人種間結婚が急速に進み,日系アメリカ人社会は変容しつつある。大都市の日本人街も居住区としてよりも商業活動の場としての性格を強めており,日系人は社会階層,経済力に見合った地域に分散居住する傾向にある。現在,日系アメリカ人の人口は約70万(1980)で,非白人としては,黒人,インディアンを除けば,フィリピン人に次いで多い。日系人の70%以上はハワイとカリフォルニアの2州に集中しており,これらの州では連邦議員をはじめ州知事,州会議員,公務員などへの進出も目覚ましい。一般に日系人は,学界,芸術界のほか,医師,弁護士,技術者など上層中産階級や,教師のような知的職業に従事する者が多い。
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百科事典マイペディア 「日系アメリカ人」の意味・わかりやすい解説

日系アメリカ人【にっけいアメリカじん】

米国国籍の日本移民,およびその子孫。たいていは19世紀後半から第2次大戦前までの間に移住した人々とその子孫をさす。1868年ハワイに労働者として渡った契約移民の一団が最初とされる。やがて1900年後半から1920年には,先に定住した男性の結婚相手として,多くの〈写真花嫁〉が移民会社により送りこまれた。その後移民の定着が進むにつれ排日気運が高まり,1908年日米紳士協約が締結され,経済活動が大幅に制限された。1924年には排日移民法が成立,日本からの移住は完全に禁止された。太平洋戦争が勃発すると,敵性国人であるとして日系アメリカ人だけがマンザナーManzanarなどの強制収容所に送られた(ドイツ系,イタリア系は送られなかった)。その一方で約3万3300人の二世がアメリカ兵として従軍。戦後,全米日系市民協会Japanese American Citizens League(略称JACL,1930年結成)の働きかけにより,1952年ウォルター=マッカラン法が制定され,再び日本からの移民が認められた。1970年代に入ると,JACLの若者を中心に戦争中の処遇に対する補償要求運動が起こり,その結果1990年から個人補償が実現。日系人の米国における社会的地位の変化や日米関係の親密化,また日系人社会における世代交代が進むにつれ,日系人社会における〈日本〉の意味合いも変化してきている。
→関連項目猿谷要

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「日系アメリカ人」の意味・わかりやすい解説

日系アメリカ人
にっけいアメリカじん
Japanese-Americans

アメリカ合衆国国籍の日本移民およびその子孫。日本人のアメリカ移住は 1860年代末に始まり,1890年代末から 20世紀初めにかけて急増。移住が西海岸に集中していたこともあって,1905年カリフォルニア州で排日運動が起こった。1908年日米紳士協約により移民を自主規制することになったものの排日の機運は強く,ついに 1924年排日移民法が制定され帰化権をもたない日本人は移住できなくなった。さらに太平洋戦争に際しては約 10万の日系人が内陸部の収容所に強制的に移住させられた(→移民問題)。1970年代に入って戦時中の強制移住に対する補償と名誉回復を求める動きが活発になり,ロナルド・レーガン大統領の時代,大統領名による「謝罪」と補償が実現した。ハワイ州やカリフォルニア州などでは日系人の州知事や連邦議員も選出されている。2000年時点の日系アメリカ人は約 80万人(全人口の約 0.3%)。

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世界大百科事典(旧版)内の日系アメリカ人の言及

【移民】より

…北米では大戦中財産凍結や強制移住の辛酸もなめた。しかし今日では市民権を得,社会的地位も相当上昇して,受入国の日系市民として生活している(日系アメリカ人)。戦後は1952年のサンフランシスコ講和条約締結後,ブラジルをはじめ南米諸国と移民協定が結ばれたが,国内産業の発展により,実績は戦前よりずっと少ない。…

【太平洋戦争】より


[戦時下の敵国人]
 1941年末現在,日本にいた外国人は2万9326名であったが,彼らは開戦とともに旅行や居住の制限を受け,彼らの多くはのちに神奈川県北足柄村(現,南足柄市)や長野県軽井沢などの抑留所へ収容された。一方アメリカ西海岸に在住していた日系アメリカ人万2353名は,F.ローズベルト大統領が公布した42年2月19日の大統領令第9066号により〈再定住センターrelocation center(camp)〉と呼ばれる10ヵ所の収容所などへ強制収容された。彼らの多くは財産を失い,17歳以上の男子は43年2月からアメリカ軍への参加とアメリカ合衆国への忠誠心の有無を調査する忠誠テストにかけられた。…

【邦字新聞】より

… 第2次大戦中,西海岸を主力としていたほとんどの邦字紙は廃刊,休刊を余儀なくされた(コロラド州の《格州時事》《ロッキー日本》などは存続)。しかし,日系アメリカ人たちは,収容所内で《Heart Mountain Sentinel》などいくつかの収容所内新聞をつくり,ジャーナリズム活動を続けている。
[第2次大戦後]
 戦後,サンフランシスコでは1946年5月,《日米》の系譜をひく《日米時事》が再生し,戦前の《新世界朝日》(1894年創刊の《新世界》の後身)の系譜をひく《北米毎日Hokubei Mainichi》が48年2月創刊され,ロサンゼルスでは《羅府新報》が再刊され,戦中でも新聞発行が続けられたハワイでは《ハワイ・タイムスHawaii Times》(1895年創刊の《やまと新聞》が前身,1942年《日布時事》を改題),1912年創刊の《ハワイ報知Hawaii Hochi》などが活動を続け,邦字紙の世界は急速に再建,拡大されていく(《ハワイ・タイムス》はその後休刊)。…

【ロサンゼルス】より

…60年代に黒人の自己主張に刺激されてみずからを〈チカノ〉と称しているが,その後,チカノも含むスペイン語系の〈ヒスパニック〉は激増し,1990年には市人口の4割近くを占めるに至った。日系アメリカ人は現在では最も成功した少数派人種といえる。第2次大戦中は敵性外国人のレッテルをはられマンザナーManzanar収容所などに抑留されたが,戦後,日系社会は目覚ましく復興した。…

※「日系アメリカ人」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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