日置黙仙(読み)ひおきもくせん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「日置黙仙」の意味・わかりやすい解説

日置黙仙
ひおきもくせん
(1847―1920)

明治・大正期の曹洞(そうとう)宗の僧。号は維室(いしつ)、勅賜号は明鑑道機禅師(みょうかんどうきぜんじ)。伯耆(ほうき)(鳥取県)の人。中興寺の笑巌黙中(しょうがんもくちゅう)について得度、嗣法する。金沢・天徳院(てんとくいん)の諸嶽奕堂(もろたけえきどう)(1805―1879)の下で修行し、西有穆山(にしありぼくさん)の親交を得、廃仏毀釈(きしゃく)後の宗団復興と仏教の国際交流に努める。1900年(明治33)シャム(タイ)国に仏骨奉迎使節として赴き、1912年同国皇帝戴冠(たいかん)式に臨み、また中国、台湾、南方歴訪、1915年にはサンフランシスコの万国仏教徒大会に代表として参加した。中興寺、円通寺、可睡斎(かすいさい)を歴住し、名古屋に仏骨を収める各宗共通の日暹(にっせん)寺(のち日泰寺(にったいじ))を開創した。1916年(大正5)永平寺66世の貫首(かんしゅ)となる。大正9年9月2日74歳で入寂。

[櫻井秀雄 2017年9月19日]

『『日置黙仙禅師語録』(1942・可睡斎)』『高階瓏仙監修『日置黙仙禅師傳』(1962・大法輪閣)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

20世紀日本人名事典 「日置黙仙」の解説

日置 黙仙
ヒオキ モクセン

明治・大正期の僧侶 曹洞宗管長;永平寺貫首。



生年
弘化4年1月23日(1847年)

没年
大正9(1920)年9月2日

出生地
伯耆国久米郡島村(鳥取県北条町)

別名
幼名=源之助,号=維室

経歴
文久元年13歳で出家加賀の天徳院奕堂に師事、印可を与えられる。各地の住職を経て、静岡の可睡斎に入寺、宗政にも関わる。明治33年仏舎利奉迎使としてシャム(タイ)に赴き、帰国後名古屋に仏骨を収めた各宗共宗の覚王山日暹寺(現・日泰寺)仏骨塔を率先して建設。40年シャム国王戴冠式に仏教各宗管長を代表して出席、のち朝鮮、中国東北地方、台湾各地を巡回、大正4年米国サンフランシスコでの万国仏教徒大会に出席。5年永平寺貫主、6年曹洞宗管長に就任した。著書に「日置黙仙禅師語録」「黙仙禅話」など、また刊行会編「日置黙仙禅師伝」がある。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

朝日日本歴史人物事典 「日置黙仙」の解説

日置黙仙

没年:大正9.9.2(1920)
生年:弘化4.1.23(1847.3.9)
江戸末から明治大正時代の曹洞宗の僧。号は維室。伯耆国久米郡島村(鳥取県北条町)の日置治吉の次男。俗名源之助。静岡可睡斎などの住職を歴任。暹羅(タイ)皇室より仏舎利を受け,供養のため名古屋に各宗共立の日暹寺(日泰寺,曹洞宗)を創建した。大正5(1916)年,永平寺第66世貫首,翌年,第9代曹洞宗管長となる。タイ国王戴冠式,サンフランシスコ万国仏教会議の出席をはじめ,インド,中国,朝鮮などを歴訪,広く世界に目を向けた仏教を理想とし,宗派を超えてその実践に努めた。<著作>『日置黙仙禅師語録』<参考文献>田中霊鑑『日置黙仙老師満漢巡錫録』,永平寺史編纂委員会編『永平寺史』

(熊本英人)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「日置黙仙」の解説

日置黙仙 ひおき-もくせん

1847-1920 明治-大正時代の僧。
弘化(こうか)4年1月23日生まれ。曹洞(そうとう)宗。諸岳奕堂(もろたけ-えきどう)にまなび,笑巌黙中の法をつぐ。静岡県袋井の可睡斎(かすいさい)住職となる。明治33年シャム(現タイ)に仏舎利奉迎使節団員としていき,37年名古屋の日暹(にっせん)寺(現日泰寺)創建に参画。大正5年永平寺貫首,翌年曹洞宗管長。大正9年9月2日死去。74歳。伯耆(ほうき)(鳥取県)出身。号は維室。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

今日のキーワード

ビャンビャン麺

小麦粉を練って作った生地を、幅3センチ程度に平たくのばし、切らずに長いままゆでた麺。形はきしめんに似る。中国陝西せんせい省の料理。多く、唐辛子などの香辛料が入ったたれと、熱した香味油をからめて食べる。...

ビャンビャン麺の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android