日露・日ソ関係(読み)にちろ・にっそかんけい

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「日露・日ソ関係」の意味・わかりやすい解説

日露・日ソ関係
にちろ・にっそかんけい

16世紀末からシベリア進出を開始したロシア人は,17世紀末にカムチャツカ沿岸や千島列島で日本人と接触しはじめた。鎖国中の日本に初めて開国を求めたのはロシアであった。国家間の関係としては 1855年日露通好条約が調印され,千島列島のウルップと択捉の間を国境とすることが決められたのが最初である。続いて 75年の千島・樺太交換条約で千島列島全域を日本領,樺太をロシア領とすることが決められた。 19世紀末頃からは大陸への進出を企てる日本と南への勢力拡大をねらうロシアが衝突するようになり,1904年日露戦争が勃発した。これに辛勝した日本はポーツマス条約 (1905) により南樺太を得た。 10月革命でソビエト政権が出現すると,日本はアメリカとの共同出兵でシベリアに最大7万余の兵力を派兵し,22年まで4年間にわたって占領した。 25年には日ソ基本条約が調印され,国交樹立。しかし日本は日独防共協定 (36) ,日独伊三国同盟の締結で反共反ソ政策を強め,38年張鼓峰,39年ノモンハンでソ連と武力衝突を起したが大敗独ソ不可侵条約の締結もあり日本は 41年4月日ソ中立条約に調印した。第2次世界大戦末期の 45年4月ソ連は中立条約の不延長を通告,条約がまだ有効であるにもかかわらず8月8日対日参戦に踏切り,千島,南樺太,中国東北地方,北朝鮮を占領,約 50万人の日本人を抑留した (→シベリア抑留 ) 。ソ連は戦後アメリカ主導の対日講和に不満をもち,51年のサンフランシスコ講和条約には調印しなかった。スターリンの死後国交回復交渉が始り,56年 10月日ソ共同宣言が調印され,国交が回復された。ソ連はこのなかで,平和条約調印後歯舞・色丹両島を日本に引渡すと約束した。しかし 60年6月日米安全保障条約が改定されるとソ連はこれを理由に歯舞・色丹の引渡しは行わないと態度を変え,以後ソ連は領土問題は解決済みとの態度をとった。 73年 10月田中角栄首相が訪ソし交渉したが大きな進展はなかった。 79年末のソ連のアフガニスタン侵攻は西側に大きな反発を呼び,80年のモスクワ・オリンピック不参加,対ソ経済制裁などが行われ,日本もこれに同調した。ゴルバチョフの登場で,柔軟な新思考外交により,外交・文化交流が活発になり,91年4月ゴルバチョフによるロシア・ソ連の元首として史上初めての訪日が実現した。海部俊樹首相との首脳会談の結果,領土問題の存在,56年宣言の肯定的要素を発展させることをうたった共同声明と 15の実務文書が調印された。しかし同年 12月ソ連邦は解体,ゴルバチョフは辞任し,日ソ交渉はエリツィン大統領の率いる日露交渉へと引継がれた。エリツィンは 92年9月,93年5月の2回の訪日予定を一方的に延期したのち,同年 10月ようやく訪日を果し,細川護煕首相と会談し東京宣言に署名した。しかしこの際,シベリア抑留問題で公式謝罪はしたものの,北方4島の帰属問題については 56年宣言の有効性を確認し,継続して協議を行うとの段階にとどまり,進展はみられなかった。一方,92年に発足した日露交流極東合同協議会は 93年5月ウラジオストクで第2回会合を開いた。

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