春田村(読み)しゆんだむら

日本歴史地名大系 「春田村」の解説

春田村
しゆんだむら

[現在地名]庄原市春田町

三上みかみ郡の南西部に位置し、中央を東から西へ本村ほんむら川が蛇行、その両岸耕地が開ける。北は緩やかな丘陵地で、東はみね村、西は実富さねどめ村と接する。飛郷の山津田やまつだは南の山地にあり、峰村・実富村、三谿みたに灰塚はいづか(現双三郡三良坂町)に囲まれる。

中世には信敷しのお庄東部に位置し、正安二年(一三〇〇)五月二三日付の六波羅下知状(山内首藤家文書)に「田所職事為峯・春田地頭所務之内」とある。この文書によると、この頃信敷庄の地頭は長井氏(のちの田総氏)であったが、峰・春田の田所職をめぐり、名主泉谷秀信との間で争いが生じている。村内には京免きようめん(経免)中門田なかもんでなど荘園の歴史を伝える地名が残る。江戸時代は広島藩領。水利本村川と溜池により、宝暦期(一七五一―六四)には井堰六・溜池三一があった(「三上郡村々差出覚書帳」桑原家文書)


春田村
はるだむら

[現在地名]三春町春田

蛇石へびいし村・たき村の西、狐田きつねだ村の北にあり、大滝根おおたきね川の南岸で、蛇石へびいし川と牛縊うしくびり(過足川)が大滝根川に合流する。永禄四年(一五六一)六月二三日の熊野山新宮年貢帳(仙道田村荘史)に「三段 二百五十文 むつ田」とみえ、「む」は「は」の誤読と思われる。天正一四年(一五八六)一〇月一三日の熊野山新宮年貢帳(青山文書)では「はつ田」と記され、紀州熊野新宮に年貢二三〇文を納めている。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では牛縊(現郡山市)の高一千八二〇石余に含まれる。加藤明利入封の寛永四年(一六二七)の田村郡高目録之写(船引町史)でも牛縊八郷の一つとして記されるが、高の書分けはない。秋田氏入封の正保二年(一六四五)の在々屋敷数家数并人数(三春町史)では屋敷数六・家数一六、人数三五(男二二・女一三)


春田村
はるたむら

[現在地名]中川区富田とみだ町春田

西は戸田とだ村に接する。富田庄絵図(円覚寺蔵)に春田里とみえ、「尾張国地名考」は「正字治田はるだの転声なり、富田墾田とだはりだ同時に開拓せし地也とぞ」と記す。寛文一一年(一六七一)の家数八四、人数四二三(寛文覚書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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