峰村(読み)みねむら

日本歴史地名大系 「峰村」の解説

峰村
みねむら

[現在地名]庄原市峰田みねた

三上みかみ郡の南部、本村ほんむら川の上流域に位置する。青岳あおだけ(五五一メートル)北西麓にあたり、耕地本村川両岸にあり、南東は標高五〇〇メートル前後の山が連なるが、北西は三五〇メートル前後のなだらかな丘陵地。西は春田しゆんだ村、南は甲奴こうぬ稲草いなくさ(現総領町)に接する。村の西南方春田村飛郷山津田やまつだの南に、飛郷の勝負迫しようぶざこがある。

本村川上流域では、住居跡・古墳など約一三〇の遺跡が確認されるが、村域にはせん古墳群(九基)・千ヶ寺西古墳群(五基)発展はつてん古墳群(五基)をはじめ、当村とほん村との境にある月貞寺げつていじ古墳群(古墳三三基・土壙三)などがある(中国自動車道建設で破壊)。なお千ヶ寺古墳群中の前方後方墳は県内唯一。


峰村
みねむら

[現在地名]坂戸市北峰きたみね

大塚おおつか村の北西にあり、南方をくず川が東流する。入間いるま入西につさい領に属した(風土記稿)。寛永二年(一六二五)九月大久保新八郎(康村)高麗こま郡「嶺之村」五〇石を宛行われた(記録御用所本古文書)。田園簿では田九石余・畑七六石余。幕府領(二七石余)と旗本大久保新八領(五〇石)・同大久保久六領(八石)。両大久保領は幕末まで変わらない。幕府領分は宝暦一二年(一七六二)から寛政七年(一七九五)まで三卿の清水領となり、文政五年(一八二二)以降下総古河藩領(「古河御家中并御加増地村高帳」比留間家文書)


峰村
みねむら

[現在地名]掛川市下垂木しもたるき

田中たなか村の北に位置し、嶺村峯村とも書く(元禄郷帳など)富部とんべ村の分村といわれ、同村のうちに飛地が多かったという(掛川誌稿)正保郷帳に「嶺村」とみえ、田方一二一石余・畑方一〇石余、掛川藩領(幕末に至る)。文政一二年(一八二九)の御高等書留によると高一四四石余(うち新田九石余)、毛付高一二九石余の納辻米一八九俵余、家数一五は本家、人数七〇、馬七。元禄一〇年(一六九七)には掛川宿の大助郷で勤高一三四石(「掛川町助郷帳」戸田家文書)


峰村
みねむら

[現在地名]桃山町峰

中畑なかはた村の北、南流する細野ほその川の東山中に位置し、東は根来窪ねごろくぼ村に接する。「続風土記」に「村居二ツに分る、東南根来窪堺にあるを大峰といふ、其西の山の腰にあるを中峰といふ、中峰の人家は中畑村と相接す、村の名義文字の如し、村居山上に散在す」とある。高野山領で、「続風土記」は村高を中畑村を合せて一七二石余とする。戸口は分けて記し、当村は家数二〇、人数一三〇。大峰おおみねにある高野山真言宗地蔵じぞう寺は寛文年間(一六六一―七三)に僧宥賢によって建立されたと伝え、所蔵の青銅鰐口に寛文四年の銘が刻まれる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android