景徐周麟(読み)けいじょしゅうりん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「景徐周麟」の意味・わかりやすい解説

景徐周麟
けいじょしゅうりん
(1440―1518)

室町後期五山文学を代表する臨済宗夢窓(りんざいしゅうむそう)派の僧。半隠(はんいん)、宜竹(ぎちく)、対松(たいしょう)とも号す。5歳にして相国寺(しょうこくじ)に入り、用堂中材(ようどうちゅうざい)に参じ、のちに嗣法した。景徳寺(けいとくじ)、等持寺(とうじじ)などを経て、1495年(明応4)3月23日相国寺に入寺し、翌1496年2月相国寺鹿苑院(ろくおんいん)に移って僧録を司(つかさど)った。永正(えいしょう)15年3月2日相国寺慈照院(じしょういん)の宜竹軒にて示寂。詩文集として『翰林葫蘆集(かんりんころしゅう)』17巻、日記として『等持寺日件』『日用三昧(にちようざんまい)』『日渉記(にっしょうき)』『日件(にっけん)』(『鹿苑日録(ろくおんにちろく)』所収)など。

[伊藤秀憲 2017年6月20日]

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改訂新版 世界大百科事典 「景徐周麟」の意味・わかりやすい解説

景徐周麟 (けいじょしゅうりん)
生没年:1440-1518(永享12-永正15)

室町中期の五山禅僧。字は景徐,諱は周麟。別に半隠,宜竹と号す。大館持房の子。夢窓派の用堂中材に参じ,その法を継いだ。学芸瑞渓周鳳(ずいけいしゆうほう),横川景三おうせんけいさん)らから受け,景徳・等持・相国・南禅の諸寺に住した。その間,1497年(明応6)2月相国寺鹿苑院に入り,1500年4月23日まで僧録の業務をつかさどった。1518年3月2日寂。79歳。詩文集《翰林葫蘆集》,日記《等持寺日件》《日渉記》などがある。
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朝日日本歴史人物事典 「景徐周麟」の解説

景徐周麟

没年:永正15.3.2(1518.4.11)
生年:永享12(1440)
室町・戦国時代の臨済宗の僧。宜竹と号する。室町幕府に仕えた大館持房の子。相国寺の用堂中材の法を嗣ぎ,詩文を瑞渓周鳳,希世霊彦,横川景三,桃源瑞仙から学び学僧として知られた。応仁の乱(1467)では近江(滋賀県)永源寺に逃れる。景徳寺,等持寺の住持となり,明応4(1495)年相国寺に住する。さらに鹿苑院主となり五山官寺を司る僧録となる。相国寺慈照院に葬られ,日記として『等持寺日件』『日渉記』があり『鹿苑日録』の一部として残されている。語録詩文集『翰林葫蘆集』がある。

(原田正俊)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「景徐周麟」の解説

景徐周麟 けいじょ-しゅうりん

1440-1518 室町-戦国時代の僧。
永享12年生まれ。大館持房(おおだち-もちふさ)の子。臨済(りんざい)宗。京都相国(しょうこく)寺の用堂中材,横川景三(おうせん-けいさん)らにまなび,用堂の法をつぐ。明応4年相国寺住持となり,5年同寺鹿苑(ろくおん)院主,僧録司。永正(えいしょう)15年3月2日死去。79歳。近江(おうみ)(滋賀県)出身。別号に宜竹,半隠。著作に「翰林葫蘆(かんりんころ)集」「宜竹残稿」など。

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