僧事をつかさどる職。もと中国後秦時代にその名称があらわれ,唐・宋時代は左右両街僧録,明時代には僧録司の制度があった。日本には室町時代以降,禅宗寺院,禅僧を管理・統轄する役職としてとりいれられた。将軍足利義満が1379年(天授5・康暦1)10月に相国寺の禅僧春屋妙葩(しゆんおくみようは)を任命し,五山官寺制度の最高管理職としたのにはじまる。五山・十刹・諸山官寺の住持任免,位階昇進,寺領与奪や外交文書の作成などを職務とした。代々の僧録は相国寺塔頭(たつちゆう)鹿苑(ろくおん)院主が兼務したことで〈鹿苑僧録〉と通称され,将軍足利義教のころから,その職務の実権は蔭涼(いんりよう)職に握られたが,1615年(元和1)徳川家康が廃止するまで,250年余存続し,50余代を数えた。歴代のうち,一山派の仁如集尭以外はすべて夢窓派の禅僧がつかさどった。近世期には,1619年金地(こんち)院の以心崇伝が僧録となり〈金地僧録〉と称し,明治維新まで存続したが,1635年(寛永12)寺社奉行が設置されたのちは名目的な存在となった。僧録は五山官寺に入らなかった曹洞宗でも独自に置かれ,応安年間(1368-75)には通幻寂霊(つうげんじやくれい)がその任につき,近世には関三刹が関東僧録として幕府から任命された。また禅宗以外では,真言宗新義派に置かれ,元禄期には護持院の僧隆光が僧録となったことがある。
執筆者:竹貫 元勝
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官命により僧尼の登録や任免など、僧衆の管理にあたる僧官のこと。同様の職掌に僧正(そうじょう)や僧綱(そうごう)があるが、僧録はおもに禅宗における呼称。中国では後秦(こうしん)のころにこの名称があるが、唐代の802年に端甫(たんぽ)が初めて任じられ、明(みん)代にもその制があった。日本では、1379年(天授5・康暦1)相国(しょうこく)寺の春屋妙葩(しゅんおくみょうは)が足利義満(あしかがよしみつ)に命ぜられ、代々鹿苑院(ろくおんいん)(義満の修禅道場)の院主がこの職に任じられ、1615年(元和1)の以心崇伝(いしんすうでん)に至るまで存続した。曹洞(そうとう)宗では、応安(おうあん)年間(1368~75)に丹波(たんば)(京都府)永沢(ようたく)寺の通幻寂霊(つうげんじゃくれい)が任じられたのが初めで、近世では、幕命により下総(しもうさ)(千葉県)総寧(そうねい)寺、武蔵(むさし)(埼玉県)竜穏(りゅうおん)寺、下野(しもつけ)(栃木県)大中(だいちゅう)寺の各住職が天下大僧録に、遠江(とおとうみ)(静岡県)可睡斎(かすいさい)の住職が東海道大僧録に任じられ、全国に僧録頭(そうろくがしら)、録所(ろくしょ)寺院を配置して一宗を管掌した。また近世では新義真言(しんごん)宗にも僧録があった。
[石川力山]
禅院の僧事を統轄する僧職。1379年(康暦元・天授5)春屋妙葩(しゅんおくみょうは)が任じられたのが最初で,以後,五山派寺院の統制機関として機能した。相国寺に鹿苑院ができて以降,その塔主が僧録を兼ねたので鹿苑僧録ともよばれた。同寺内の蔭涼軒の副僧録の補佐をうけて権勢をふるったが,室町時代に形骸化,1615年(元和元)に廃止された。その後,南禅寺金地院(こんちいん)の以心崇伝(いしんすうでん)が任じられ,以後同院塔主が江戸末期まで勤めた。僧録,または僧録の役所を僧録司ともいった。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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