戦国初期の五山文学の禅僧(臨済宗)。万年村僧,小補,補庵の別号も用いる。播磨(兵庫県)に生まれ,4歳で京都相国寺常徳院の英叟につく。1441年(嘉吉1)英叟の法兄の竜淵に参じ,同年3月,曇仲道芳の三十三回忌に墓塔を拝して弟子となる。文学僧曇仲の法系を存続させるはからいであった。67年(応仁1)8月には桃源瑞仙とともに応仁の乱を避けて近江(滋賀県)市村滋雲寺や永源寺竜門庵に居住した。近江ではのちに識廬庵を建てた小倉実澄や野洲の永原吉重らと親交をもった。72年(文明4)春に京都に出,その後,細川勝元の援助で常徳院のそばに小補軒を建てた。78年等持寺,80年と85年に相国寺,87年(長享1)南禅寺の住持となり,将軍足利義政より金襴の袈裟を贈られている。88年またも相国寺の住持となり,91年(延徳3)臨川寺三会院に入り,義政の懇請に応じて,92年(明応1)には鹿苑院に入り,同院塔主兼帯の僧録を務めた。漢詩文は瑞渓周鳳から学び,散文が得意で,詩文集に《補庵京華集》《小補東遊集》などがある。これらには細川氏一門や伊勢貞宗,近江の武士などとの交流のことがみられる。
執筆者:広瀬 良弘
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
室町中期の禅僧。号を小補、補庵(ほあん)という。播磨(はりま)(兵庫県)の人。4歳で相国寺(しょうこくじ)常徳院に入り、13歳のとき曇仲道芳(どんちゅうどうほう)(1367―1409)の法を嗣(つ)いだ。曇仲は名利に執せず文筆に優れた僧であった。横川もまたこの態度で一生を貫いた。38歳のとき応仁(おうにん)の乱を避けて近江(おうみ)に移ったが、このころにはすでに詩文僧として名が高まっていた。44歳で帰京後は足利義政(あしかがよしまさ)の信頼を受け、相国寺鹿苑院塔主(ろくおんいんたっす)の位にまでつき僧録をつかさどることもあった。明応(めいおう)2年65歳で没するまで詠作した詩文の数は膨大で、『小補集』『補庵集』『小補東遊集』『補庵京華(けいか)集』等がある。
[中本 環 2017年5月19日]
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