改訂新版 世界大百科事典 「暁民共産党事件」の意味・わかりやすい解説
暁民共産党事件 (ぎょうみんきょうさんとうじけん)
1921年近藤栄蔵や暁民会,赤瀾会有志らが,治安警察法および出版法違反で検挙された事件。軍隊赤化事件ともいう。同年1月復刊された大杉栄の《労働運動》には近藤とともに高津正道も協力しており,4月に組織された日本共産党準備委員会には,早稲田大学学生高津,高瀬清らを中心に結成された(1920年5月)学生,労働者の団体〈暁民会〉員も参画していた。上海より帰った近藤は8月以降暁民会を中心に,赤瀾会(1921年4月結成)などとも関係しつつ活躍していた。8月末,ヨーロッパ訪問の皇太子帰国に際する予防検束は,高津夫妻の不敬文書作成(お目出度誌事件)のかどによる検挙にとどまり,高瀬は釈放後,極東民族大会に参加のため日本を離れる。11月首都の陸軍特別大演習中,民家に分宿している兵士あてに〈軍人諸君に〉〈上官に叛け〉などという反戦ビラを送ったり,全国主要都市でマッチ箱ぐらいの大きさのポスター(伝単)を街の電柱や便所の壁などにはりつけるや(モスクワにも届き,極東民族大会文書集に掲載),いっせいに検挙された。近藤らが1921年8月20日ごろ,無産社の仲宗根源和らも加えて〈暁民共産党〉を結成したという誤認に基づき,治安警察法の秘密結社罪が近藤,高津,高瀬,仲宗根ら8名に適用された。また,出版法の朝憲紊乱(びんらん)罪は赤瀾会の堺真柄,仲宗根貞代らのほか,《労働運動》同人寺田鼎にも及ぼされた。約40名が11~12月に検挙されたが,堺利彦,山川均は累を免れた。近藤,高津ら16名に禁錮8ヵ月,堺らに禁錮4ヵ月が科された。21年末までに暁民会も赤瀾会も消滅するが,被起訴者は22年1月,4月に相次ぎ保釈となり,7月15日の日本共産党創立大会に近藤,高津,高瀬らは出席した。
執筆者:岩村 登志夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報