1921年4月に結成された婦人社会主義者団体。設立当初の会員は42人で,ほとんどが男性の社会主義者を身内にもつ女性。設立世話人は,堺真柄(さかいまがら),九津見房子,橋浦はる子,秋月静枝の4人。顧問格で山川菊栄と伊藤野枝が加わった。綱領に〈私達は私達の兄弟姉妹を窮乏と無智と隷属とに沈淪せしめたる一切の圧制に対して断乎として宣戦を布告するものであります〉とうたい,活発な街頭活動を展開した。結成まもない同年の第2回メーデーには会員十数人が女性として初めて参加,黒地に赤で会名を記した旗を携えて示威行進し検束された。続けて講演会や講習会を開催して,社会主義女性解放思想の普及につとめたが,11月,軍隊に反戦ビラをまいた軍隊赤化事件でおもな会員が検挙投獄されるなどの弾圧にあい,1年足らずで自然解消した。
運動は,残留会員に新たな活動家を加えて,23年3月8日の第1回国際婦人デーを期して結成された〈八日会〉に引き継がれた。
執筆者:江刺 昭子
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1921年(大正10)4月24日に結成された日本最初の社会主義婦人団体。橋浦(はしうら)はる子、九津見房子(くつみふさこ)、堺真柄(さかいまがら)、秋月静枝が世話役となり、山川菊栄(きくえ)、伊藤野枝(のえ)らも加わった。会の名称は、「社会主義運動の流れに小さなさざ波くらいはおこすことができるのではないか」ということからつけられたもので、婦人を「窮乏と無知と隷属とに沈淪(ちんりん)せしめたる一切の圧制」と闘うことを宣言した。前年発足した社会主義同盟に、婦人は治安警察法第5条第1項(女子の政社加入禁止)により正式加入できなかったところから生まれたものである。会員は社会主義同盟員の家族を中心に42名とされているが、名前だけの人も多く、実数は十数名という。思想的には多様で、無政府主義の影響が強かった。結成直後の第2回メーデー(1921年5月1日)に、黒地に赤くR・W(Red Waveの意)と記した旗を掲げて参加、2名が検束されて話題となった。「婦人問題講演会」「夏期講習会」などの啓蒙(けいもう)活動も行ったが、1年たらずで自然解消し、社会主義婦人運動は山川菊栄らの八日会へと引き継がれた。
[米田佐代子]
『江刺昭子著『覚めよ女たち』(1980・大月書店)』
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1921年(大正10)4月に結成された初の女性社会主義団体。設立世話人は九津見房子・堺(近藤)真柄(まがら)・橋浦はる子・秋月静枝で,顧問に山川菊栄(きくえ)と伊藤野枝(のえ),会員は42人。夫や父親などが社会主義者である女性が多く,日本社会主義同盟の事実上の女性部隊といわれる。同年の第2回メーデーにむけて,ビラ「婦人に檄す」(起草は山川菊栄)を作成し,活発な街頭活動を行った。メーデーにも会員十数人が参加し,デモ行進中ほとんどが検束され注目された。同年6月には婦人問題講演会,7月には夏季講習会を開き,社会主義女性解放思想の普及に努めた。11月の軍隊赤化事件で堺真柄らが検挙・投獄されて活動が弱まり,23年解消して,第1回国際婦人デーを期して新たに結成された八日会に活動が引き継がれた。
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…女性労働者の運動としては,1886年に,甲府の雨宮製糸工場の女工が日本最初のストライキを行い,1916年には〈友愛会婦人部〉が設置され,女性労働者の組織化が進められた。大正デモクラシーの高揚のなかで,21年には堺(のちの近藤)真柄など社会主義者が〈赤瀾会〉を結成し,第2回メーデーには,女性としてはじめて参加した。 昭和のファシズムと第2次大戦は,女性運動をつぶしまた変質させていった。…
※「赤瀾会」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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