社会主義者。明治13年12月20日岡山県倉敷に出生。1897年(明治30)学制改革に反対し同志社を中退、上京し、守田有秋(文治)を知る。1900年守田と始めた小雑誌『青年の福音(ふくいん)』掲載の文が不敬罪に問われ(不敬罪第1号)、重禁錮3年半の刑を受け入獄。04年仮出獄し、平民社に幸徳秋水を訪ね、感銘を受けて帰郷。06年日本社会党に入党、ついで幸徳に招かれ上京し、日刊『平民新聞』の編集に従事。08年赤旗事件で入獄中、大逆事件が起こったが、獄中にいたため命拾いした。出獄後郷里に戻り、薬屋を営む。最初の妻、大須賀里子との死別後、薬屋を閉じ、16年(大正5)に上京、堺利彦(さかいとしひこ)の経営する売文社に入り、ふたたび社会主義運動に参加。同年青山菊栄と結婚。ロシア革命後、精力的に民本主義批判の論陣を張り、マルクス主義の旗幟(きし)を鮮明にして、社会主義理論家の地歩を固めた。同時に荒畑寒村と労働組合研究会をつくり『青服(あおふく)』を発行、また水曜会を主宰して西雅雄(まさお)らの社会主義者を育てた。22年日本共産党の創立に参画、同年夏発表の「無産階級運動の方向転換」は、当時の運動に画期的な影響を与え、いわゆる「山川イズム」として一世を風靡(ふうび)した。再建された第二次共産党には加わらず、27年(昭和2)山川らによって『労農』が創刊されるに及んで、両者の対立は決定的となった。以後、山川は労農派マルクス主義の総帥として活動。37年人民戦線事件で投獄された。戦後、46年(昭和21)人民戦線を提唱し、統一戦線を志向したが、不成功に終わった。以後は社会党左派の立場から活動を続け、51年には社会主義協会を結成し、代表となった。昭和33年3月23日、膵臓癌(すいぞうがん)で死去。墓は倉敷・長連寺山門横の山川墓地にある。
[鈴木裕子]
『『山川均全集』全20巻(既刊分=第2~10巻、19巻・1966~82・勁草書房)』▽『山川菊栄・向坂逸郎編『山川均自伝』(1961・岩波書店)』▽『小山弘健・岸本英太郎著『日本の非共産党マルクス主義者 山川均の生涯と思想』(1962・三一書房)』▽『川口武彦著『山川均の生涯』全二巻(1986、87・社会主義協会出版部)』
明治・大正・昭和期の社会主義者。岡山県生れ。1897年同志社中学を中退し,上京,守田文治(有秋)を知った。1900年守田と始めた小雑誌《青年の福音》掲載の一文がもとで不敬罪に問われ,重禁錮3年6ヵ月の刑に服した。04年仮出獄,平民社を訪ね,幸徳秋水を知った。帰郷後の06年2月日本社会党に入党し,同年12月幸徳の招きで上京,同党の機関紙日刊《平民新聞》の編集に従事した。08年赤旗事件で投獄されたため,大逆事件を免れた。10年出獄して,一時郷里に退いた後,16年に上京,堺利彦の売文社に入り,ふたたび社会主義運動に参加した。青山菊栄と結婚。労働者の立場から吉野作造らの民本主義批判を行う一方,荒畑寒村と労働組合研究会をつくり,《青服》を発行。19年《社会主義研究》を創刊し,マルクス主義とロシア革命の普及活動に尽力する。20年日本社会主義同盟,22年日本共産党の創立に参画,23年の第1次共産党事件では証拠不十分で無罪となった。この間22年《前衛》を創刊,同誌に載せた〈無産階級運動の方向転換〉は,当時の運動に大きな影響を与え,いわゆる〈山川イズム〉として,〈福本イズム〉が出現するまで最高の指針となった。27年堺,荒畑,猪俣津南雄らと《労農》を創刊,協同戦線論を展開するとともに労農派マルクス主義の総帥として活動。37年人民戦線事件で検挙,投獄された。46年1月民主人民戦線を提唱,統一戦線を志向し,民主人民連盟を創立して委員長となったが,連盟は活動をすることなく翌年自然解消。以後は社会党左派の立場に立ち,51年社会主義協会を創設する。
執筆者:渡辺 悦次
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(有馬学)
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明治〜昭和期の社会主義理論家,社会運動家
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1880.12.20~1958.3.23
明治~昭和期の社会運動家。岡山県出身。同志社補習科中退。妻は菊栄。上京し,1900年(明治33)守田文治と「青年の福音」を創刊,皇太子の結婚を批判し,不敬罪で入獄。06年日本社会党に入党,幸徳秋水の直接行動論を支持,赤旗事件に連坐。19年(大正8)「社会主義研究」を創刊,ロシア革命を紹介,共産党結成に参加したが,第1次共産党事件後党を離れ,無産政党組織論を展開。27年(昭和2)「労農」を創刊,左派社会民主主義のイデオローグとして終始し,人民戦線事件で検挙される。第2次大戦後,民主人民戦線運動を提唱したが失敗。「前進」の創刊や社会主義協会の結成など,左派支援を続けた。
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…なお,これに先だって1923年4~6月に同名の雑誌が刊行されている。これは,1922年創立の第1次日本共産党の党員,山川均,市川正一らによって出された日本共産党合法理論機関誌である。機関紙《赤旗(せつき)》は,28年2月1日に謄写印刷で創刊され,月2回刊,定価5銭で,完全な非合法新聞として刊行されつづけたが,相次ぐ官憲の弾圧によって35年に停刊した。…
…大戦後労働運動が高揚し,そのなかに1920年ころから大杉栄らのアナルコ・サンディカリスムの思想が強い影響力をもつようになった。一方1917年におこったロシア革命の研究が山川均らによってすすめられ,ボリシェビキの影響もみられるようになった。21年4月のロシア共産党第10回大会でアナーキスト排除が決定され,それを機に日本でもアナ派とボル派が対立した。…
…B.ラッセル,サンガー夫人,アインシュタインなどの外国知識人を招いたり,プロレタリア文学流行期にはそれに多くの誌面を割くなど,つねに時代の新思潮を敏感にとらえ大正末年には《中央公論》とならぶまでに成長した。本誌の最多執筆者だった山川均のほか河上肇,猪俣津南雄,櫛田民蔵ら多くのマルクス主義者に誌面を開放し,社会主義運動とマルクス主義の普及に多大の貢献をした。いっぽう,文芸欄は文壇の登竜門としての権威をもち,志賀直哉《暗夜行路》,中条(宮本)百合子《伸子》,芥川竜之介《河童》などの名作も生まれた。…
…創刊号に〈宣言〉をかかげるなど,他の総合雑誌とは性格を異にし,労働問題,社会問題がとくに重視され,社会主義思想の影響を強く受けた。黎明会,新人会の会員が執筆したほか,荒畑寒村,堺利彦,山川均,山川菊栄などの社会主義者も毎号のように登場している。文芸欄には小川未明,宮地嘉六,金子洋文らが執筆,しだいに労働者作家,社会主義的作家の寄稿が増加したが,関東大震災のため23年9月終刊した。…
…安部磯雄を会長に,片山潜,幸徳秋水らを擁して社会主義の研究と啓蒙にあたり,平民社と一体となって草創期の日本社会主義に大きな足跡を残したが,日露戦争中の04年11月に警察当局から解散を命じられた。(2)1951年1月,戦前の労農派の流れをくむ山川均,大内兵衛,向坂逸郎らの理論家に太田薫,岩井章,高野実らの労働運動指導者が加わって発足し,6月に雑誌《社会主義》を創刊。代表は山川,大内で,58年山川没後は大内,向坂が代表を務めた。…
…(1)1922年1月,山川均,田所輝明,上田茂樹,西雅雄らによって創刊された雑誌。〈一切の問題を,徹底した無産階級の立場から批判し,解剖し,評論し,弾劾する〉ことを目的とし,同年7月結党の第1次日本共産党の理論機関誌となった。…
…
[党創立]
第1次世界大戦後の社会運動の高揚とロシア革命の影響が波及するなかで,社会主義も新たな台頭をみせ,1920年12月に日本社会主義同盟が結成された。このころ,ロシア革命の成果を吸収した堺利彦や山川均らによるマルクス=レーニン主義の普及とコミンテルンからの働きかけがあいまって,21年4月には堺,山川らが中心となって日本共産党準備委員会を組織し,〈日本共産党宣言〉と〈日本共産党規約〉を採択した。22年1月から2月にかけてコミンテルン主催の極東民族大会に,アメリカから入露した片山潜らとともに日本から徳田球一,高瀬清,吉田一らが参加したことが契機となり,同年7月15日,正式の創立大会がもたれ,堺利彦が委員長となった。…
…1903年(明治36)には,幸徳秋水や片山潜によってはやくもマルクスの思想が部分的に紹介され,06年には《共産党宣言》の全訳も出ている。また,07年には山川均によって《資本論》第1巻の紹介が行われている。しかし,マルクスの思想が本格的に紹介されるようになったのはロシア革命(1917)以後であり,22年には〈日本共産党〉(委員長堺利彦)が結成され,コミンテルン第4回大会において承認された。…
…これがいわゆる〈二段階革命論〉であったが,それが日本共産党のいわゆる〈32年テーゼ〉とぴったりと一致することは,周知のことがらであった。 これに対して,雑誌《労農》に結集した山川均,猪俣津南雄,向坂逸郎(1897‐1985),大内兵衛,櫛田民蔵,土屋喬雄(1896‐1988)らの学者は,総じて労農派と呼ばれたが,彼らはほぼ次のように主張した。明治維新は一種のブルジョア革命であり,したがってそれ以後,日本社会の構造は土地所有よりも資本の運動によって規制されるようになった。…
…人道主義的立場から《貧乏物語》(1917)を書いていた河上肇は,個人雑誌《社会問題研究》を創刊(1919)し,しだいにマルクス主義研究を進めた。また堺や山川均,荒畑寒村らも《社会主義研究》や《新社会》を発刊して,〈我々の旗印とは何ぞや,曰くマルクス主義である〉と宣言(1919)し,労農ロシアのボリシェビズムへと向かった。一方,大杉栄は荒畑寒村とともに雑誌《近代思想》を創刊(1912)し,アナルコ・サンディカリスムの立場から新しい思想的啓蒙を行っていたが,クロポトキンの《相互扶助論》の訳出をはじめ,アナーキズムを広める活動を行った。…
…そこから彼は,代議政治による〈民衆的監督〉の制度化,普通選挙,責任内閣制の実現等をねばり強く追求し,他方で枢密院,貴族院,軍部等の非立憲的勢力の政治介入を極小化しようとした。だが山川均や大杉栄ら,大逆事件後の〈冬の時代〉をくぐってきた社会主義者などは,これを天皇主権論との対決を回避した微温な妥協理論だと批判した。他方,吉野の中に偽装せる共和主義者を見てとって,弾圧・抹殺を試みた司法官僚や軍関係者らの動きもあった。…
…1918年の米騒動以後民衆諸階層の組織化が進んだが,20年ごろから労働者階級とその他被支配階級を全体として無産階級という言い方が一般化した。
[歴史]
1922年に発表された共産党の指導者山川均の論文《無産階級運動の方向転換》は,日本の革命運動の大衆化とともに,民衆運動の政治闘争化をめざしたものである。23年山本権兵衛内閣の普選実施声明によって無産政党の組織化は現実の政治課題となり,日本労働総同盟(総同盟),日本農民組合(日農)はその具体的検討に着手,また24年嶋中雄三,鈴木茂三郎,大山郁夫,高橋亀吉など知識層を主体に結成された政治研究会は政党の綱領・規約を研究,機関誌《政治研究》を発行した。…
…山川均によって提唱された,1920年代前半の日本マルクス主義の指導理論。1922年に発表された山川の《無産階級運動の方向転換》(《前衛》7・8月合併号)は,創設されたばかりの日本共産党の理論として,労働運動に大きな影響を与えた。…
…1927年12月,山川均,猪俣津南雄,荒畑寒村らによって創刊された理論雑誌。1926年3月に創刊された雑誌《大衆》同人の鈴木茂三郎,黒田寿男,大森義太郎らも合流した。…
※「山川均」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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