曾原村(読み)そはらむら

日本歴史地名大系 「曾原村」の解説

曾原村
そはらむら

[現在地名]三雲村曾原

あお川と三渡みわたり川に挟まれた下流低地に位置し、中林なかばやし村の南東にあたる。北は小船江こぶなえ村、東は海、南西は中道なかみち村。西を伊勢参宮街道が通る。地名は海岸地形の洲原に由来し、蘇原そはらとも書く。小字名に中世の開発にかかわる柑子垣内こんじがいとはま垣内の垣内地名があり、また前新田まえしんでんきた新田・堤跡ていと新田・たつ新田・戌亥いぬい新田・新田・みなみ新田・新開しんかいなど近世の開発にかかわる地名がある。弥生時代以降の遺跡として里中さとなか遺跡がある。

平安時代から室町時代にかけて神宮領の蘇原御厨、または八条女院・後宇多院・昭慶門院へと伝領された蘇原庄がある。「勢陽雑記」などによれば嘉吉元年(一四四一)天花寺てんげいじ(現嬉野町)城主久我主計介が当地に居城し、天花寺氏と称したが、元亀二年(一五七一)の織田信意の攻略により、天花寺越中守とその子新左衛門の守備する蘇原城は落城したという。城跡は現在の三雲村役場付近で、城前・城屋敷・堀ノ内・市場などの小字名が残る。弘治二年(一五五六)三月二八日の旦那売券(潮崎稜威主文書)には「合米三石三斗七升之分、永代売渡申候、勢州そハら七郷、笠松共、先達者成就坊か引一円渡申候、越前方か自前買(得)申候所実正也、我等ようよう有ニより、売渡申候」とあり、曾原七郷の旦那職が譲られている。

曾原村
そばらむら

[現在地名]倉敷市曾原

種松たねまつ(二五八・四メートル)の南東麓に位置し、南は福江ふくえ村と接する。清田きよた八幡宮の応永二九年(一四二二)の修造棟札をはじめ、以後の棟札にも同社の所在地として「児林庄曾原村」とある。永禄一一年(一五六八)一〇月二六日の毛利輝元・元就連署禁制(黄薇古簡集)に、熊野十二所権現(現熊野神社)の神領三ヵ村の一つに「曾原庄」がみえる。正保郷帳の高二七七石余。享保六年(一七二一)の蔵入并知行高村分帳では直高三三九石余、うち一四九石余が池田豊次郎、六七石余が浅野瀬兵衛の給地で残りは蔵入。同年の田畠二〇町三反余、池一三、家数六六・人数三七七(備陽記)

文化年間の「岡山藩領手鑑」によると高二七七石余、直高三三九石余で前掲の三給、田一六町二反・畑四町二反余、池・池樋・井戸各一三、家数七〇・人数三二一、社家一軒・寺一軒(一等寺)、牛二八、木挽三軒、紺屋・桶屋各一軒。

曾原村
そはらむら

[現在地名]武生市曾原町

丹生山地を流れる天王てんのう川左岸にあり、安養寺あんようじ村の西に位置する。中世は山干飯やまかれい保の地。慶長三年(一五九八)九月の越前府中郡在々高目録に村名がみえ、高一九二・八九九石、先高一四二石余・出分五〇石余。正保郷帳によると、田方一七七石余・畠方一五石余。正保二年(一六四五)福井藩領から松岡藩領となり、享保六年(一七二一)再び福井藩領。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報