喜多村(読み)キタムラ

デジタル大辞泉 「喜多村」の意味・読み・例文・類語

きたむら【喜多村】

姓氏の一。
[補説]「喜多村」姓の人物
喜多村信節きたむらのぶよ
喜多村緑郎きたむらろくろう

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

日本歴史地名大系 「喜多村」の解説

喜多村
きたむら

[現在地名]小野市喜多町

高田たかた村の北、加古川の左岸に位置し、北を流れる東条とうじよう川が加古川に合流する沖積地に立地する。北西から南東に細長い村域を有する。現在南東部を旧国道一七五号が通るが、ひがし池の北西角で北東から南西に交わる小道が旧道である。かつては東条川に架かる板橋もこの道にかかっていた。この旧道沿いの集落を街道かいどうとよぶのに対し、村中の集落を本村ほんむらという。室町時代には奈良東大寺領大部おおべ庄域の北部に位置した。


喜多村
きたむら

[現在地名]舞鶴市字喜多

舞鶴湾の西岸に位置し、集落の背後に建部たてべ山がある。

丹後国田数帳に

<資料は省略されています>

と記される「気多保」の地に比定する説があるが判然としない。

旧語集の喜多村の項に「以前ヌカタベ村」とあり、慶長検地郷村帳に高二二五・九八石「糠田部村」がみえる。享保三年(一七一八)の領中郷村高付に「喜多村」と記されるので、時期は明らかでないがこの間に改称されたものであろう。土目録でもほぼ同高で、うち田方は二一七石余、畑方八石余。


喜多村
きたむら

[現在地名]今治市喜田村きたむら

天保郷帳には拝志北はいしきた村とあるが、藩内では喜多村と称した。今治平野の南東部、頓田とんだ川の北岸に位置し、北は鳥生とりう村に接する。東は竜登りゆうと川河口からあかがね川の深い入江と織田おだはまの松林の続く海浜で、遠く四阪しさか(現越智郡宮窪町)を望む。西は上神宮かみしんぐう村、南は拝志町に接する。海浜に近づくほど砂層の堆積が著しく、瘠地で所々に湿田や水路もあり、干害、水害を受けやすい。

拝志はやし郷の地域に含まれていたと推定され、拝志町の北部にあたるためもと拝志北村と称した。


喜多村
きたむら

[現在地名]黒田庄町喜多

加古川の中流域東岸、支流門柳もんりゆう川の北岸に位置する。北村・喜田村とも記す。慶長国絵図に北村と記載される。慶長検地による高五二四石余(延宝五年「検地帳」喜多区有文書)正保郷帳では田方七一七石余・畑方七六石余、別に北村領内と肩書された福島ふくしま新田村がみえ、高一九石余。ともに幕府領。享保一五年(一七三〇)大坂城代土岐頼稔領(同一九年「土岐頼稔知行目録」土岐家文書など)、延享元年(一七四四)大坂城代堀田正亮(出羽山形藩)(「天保校訂紀氏雑録」日産厚生会佐倉厚生園蔵など)を経て、同三年三草藩と三卿の一橋家の相給となり幕末に至る(「丹羽氏系譜」東京大学史料編纂所蔵、慶応四年「丹羽氏知行目録」池田家文庫、「一橋家領知高帳」一橋徳川家文書など)


喜多村
きたむら

[現在地名]宮津市字喜多

宮津城下の南に続く京街道筋の村。中世末の丹後国御檀家帳に「宮津の御城、国の御奉行也、小倉との」とし、「小倉殿御同名御内衆あまたあり」と記す所を後世喜多(北)村と称した。喜多において旧称として伝える地名に「南」があり、喜多城跡の南東部にあたる。

近世初頭京極氏時代は東の今福いまぶく村・南の小田おだ村とともに、慶長検地郷村帳にみえる上宮津かみみやづ庄に含まれ、宮津川上流地域の上宮津三ヵ村の一つであった。


喜多村
きたむら

[現在地名]長陽村河陽かわよう

東南は河後田かわごだ村、東は長野ながの村、西は合志こうし立野たての村に接する。中世には阿蘇大宮司家の私領である南郷下田しもだに属し、文明一六年(一四八四)八月二八日の阿蘇十二社同霜宮最花米注文(阿蘇家文書)に「一所くろかわまめ一斗」とあり、近世の喜多村の小村となる黒川くろかわがみえる。

近世は布田手永に属し、宝暦七年(一七五七)の布田手永手鑑に高三三三石九斗余とあり、うち三三石九斗余は村山九郎次郎、三〇〇石は都筑助右衛門の知行、竈数六五、男一二六・女一三四、牛三〇・馬四三、野開二〇町九反三畝・請藪七反六畝余、茶二斗二升、鳥鉄砲札五枚で、小山の口一人・小頭一人がおり、刎橋一は「南郷中にて掛申候 当時は刎橋破損仕候に付仮橋を南郷中にて掛申候」とある。


喜多村
きたむら

[現在地名]長岡市喜多町・希望が丘きぼうがおか一―四丁目・長峰ながみね

三郷屋みつごうや村の西。長岡町より信濃川を渡河して本大島もとおおじま村より関原せきはら新田を経て柏崎方面へ通じる高田たかだ往来沿いに集落がある。当村の木村家は代々喜右衛門を通称とし、越後一揆のとき堀秀治の指揮に応じて鎮撫に功を立てて苗字帯刀を許され、最寄り一三六ヵ村の大庄屋を命ぜられたという。元和三年(一六一七)堀直寄の長岡築城の折、三ノ丸の建築費を負担し、引続き牧野氏領となって特別の家格を授けられている。元禄郷帳に高七〇〇石七斗余の村としてみえる。旧高旧領取調帳では高七一五石九斗余。


喜多村
きたむら

[現在地名]福知山市字喜多

三岳みたけ山の南麓に位置する。三岳山蔵王ざおう権現(現三嶽神社)への南の登り口にあたり、蔵王権現別当寺であった金光きんこう寺がある。集落は中腹から大呂おおろ川の上流部にわたって散在、南東に離れて小字中村なかむらの集落がある。江戸時代の初めまでは北村と書いた。

中世には佐々岐ささき下山しもやま(金山郷)の地で、嘉暦四年(一三二九)五月日付預所道戒寄進状(金光寺文書)に「寄付 佐々岐下山保 北村七王子大般若転読供事」とみえ、応安五年(一三七二)四月一四日付法眼大和尚位某山林等寄進状(同文書)に「寄進 丹波国佐岐下山保北村内在所号」とある。


喜多村
きたむら

[現在地名]市島町喜多

南端を鴨庄かものしよう川が流れ、南と西はみなみ村、東は戸平とべら峠を越えて天田あまた草山くさやま(現京都府三和町)。領主の変遷は梶原かじわら村に同じ。正保郷帳に北村とみえ田高三一一石余・畠高五三石、芝山・林あり、日損少しあり。「丹波志」では旗本川勝領で家数一〇〇。天保郷帳では高四八二石余。産土神は字押手おしての春日神社。


喜多村
きたむら

[現在地名]河内長野市喜多町・さかえ

長野ながの村の南に位置し、西部には南から延びた尾根の先端があり、その三面が急な斜面になっている。南北に高野街道が通り、さらに西部には石川が流れ、東には天見あまみ川が北流し、村の北で合流する自然の要害の地。中世には尾根の上に烏帽子形えぼしがた城があった。正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳では高二三二石余で、旗本甲斐庄正房領九二石余・近江膳所藩領一三九石余、ほかに山年貢高二石一斗(喜多村・上田村・小塩村立会の烏帽子形山)


喜多村
きたむら

[現在地名]市原市喜多

犬成いぬなり村の北に位置する。犬成村枝郷で、古くは北村ともみえる。文禄三年(一五九四)上総国村高帳に北村とみえ、高一七七石。正保国絵図でも北村として高一七四石とあり、村高は幕末まで同様。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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