服部庄(読み)はとりのしよう

日本歴史地名大系 「服部庄」の解説

服部庄
はとりのしよう

和名抄」に載る法美ほうみ服部郷に成立したと考えられ、庄域は湯山ゆやま海士あもうの一部を除く現福部村域の大部分を占めていたと推測される。因幡国一宮宇倍うべ(現国府町)領で皇室が本所。鎌倉時代中期頃本所は順徳天皇の皇女であったが、その没後後深草天皇の中宮東二条院となっていた。東二条院は順徳天皇皇女の菩提を弔うことなどを条件として、正応二年(一二八九)左衛門督局に知行させた(同年閏一〇月二七日「後深草上皇院宣案」・同三年七月二四日「東二条院令旨案」楞厳寺文書、以下断らない限り同文書)領有権を失った宇倍宮は本所になんらかの働きかけを行ったとみえ、同四年「服部郷」が社領として返付されることになり、左衛門督局は宇倍宮領高狩たかがり別符(現用瀬町)を替地として与えられた(同年九月二八日坊城俊定奉書案)。服部郷とあるのは一時的に国衙領として収公されたためであろう。国衙と密接な関係をもつ宇倍宮の特殊性にかかわるものと思われる。

高狩別符は所領としては条件が悪かったらしく、その後当庄の領有をめぐって左衛門督局と宇倍宮が争ったらしいが、永仁六年(一二九八)伏見上皇は宇倍宮に返付し社家の支配権を認めた(同年一〇月一六日伏見上皇院宣案)。しかし東二条院はこの院宣をうけて翌年左衛門督局にもとのごとく当庄の知行を認めており(同七年一月二〇日東二条院令旨案)、これは当庄に対する宇倍宮の現地支配権が認められたうえで領家職が左衛門督局に与えられたものと考えられる(領家相伝系図)。左衛門督局は元徳二年(一三三〇)当庄の知行を楊梅盛親に譲与し(同年三月一〇日左衛門督局譲状案)、翌年本所もこれを安堵した(同三年三月三日広義門院令旨案)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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