後小松天皇(読み)ごこまつてんのう

精選版 日本国語大辞典 「後小松天皇」の意味・読み・例文・類語

ごこまつ‐てんのう ‥テンワウ【後小松天皇】

第一〇〇代天皇。後円融天皇の第一皇子。母は三条公忠女通陽門院厳子。名は幹仁(もとひと)永徳二年(一三八二)北朝の天皇となったが、明徳三年(一三九二)後亀山天皇から神器を継承し、ここに南北朝合一が成立。応永一九年(一四一二譲位して院政を行なう。永享三年(一四三一出家日記「後小松院宸記(しんき)」がある。法名素行智。永和三~永享五年(一三七七‐一四三三

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デジタル大辞泉 「後小松天皇」の意味・読み・例文・類語

ごこまつ‐てんのう〔‐テンワウ〕【後小松天皇】

[1377~1433]第100代天皇。在位1382~1412。北朝後円融天皇の皇子。名は幹仁もとひと。元中9=明徳3年(1392)南北朝の合一がなって南朝後亀山天皇から神器を継承。称光天皇に譲位後、院政を執った。

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朝日日本歴史人物事典 「後小松天皇」の解説

後小松天皇

没年:永享5.10.20(1433.12.1)
生年:永和3/天授3.6.27(1377.8.1)
南北朝・室町時代の天皇(在位1382~1412)。後円融天皇の嫡子。母は三条公忠の娘厳子(通陽門院)。諱は幹仁。永徳2/弘和2(1382)年4月,父帝が譲位したとき崇光皇子栄仁と皇位を争い,将軍足利義満の強力な推挙により親王宣下のないまま践祚。嘉慶1/元中4(1387)年1月元服。明徳3/元中9年閏10月,南朝の後亀山天皇から神器を継承。翌年父上皇の死により親政を開始したが,父の帯びていた叙任権など天皇としての形式的権限はすべて准三后義満が事実上の上皇としてこれを行使,後小松は全くの傀儡であった。天皇家の王権はここに終局を迎える。ところが,次男義嗣を親王に擬しひそかに皇位簒奪をうかがっていた義満が応永15(1408)年未遂のうちに急死し,皇家は空前の危機を切り抜けた。そして将軍足利義持は義満の政策をことごとく覆したため天皇は権威を回復し,同19年8月称光に譲位,院政を復活する。正長1(1428)年称光の病死により栄仁の孫を猶子に迎え,後花園天皇として践祚させた。永享3(1431)年3月出家。一休宗純長男である。<参考文献>今谷明『室町の王権』

(今谷明)

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改訂新版 世界大百科事典 「後小松天皇」の意味・わかりやすい解説

後小松天皇 (ごこまつてんのう)
生没年:1377-1433(天授3・永和3-永享5)

第100代に数えられる南北朝末から室町初期の持明院統の天皇。在位1382-1412年。名は幹仁(もとひと)。法諱は素行智。後円融天皇の第1皇子。生母は三条公忠の娘厳子(通陽門院)。6歳で即位,11歳で元服ののち,1392年(元中9・明徳3)閏10月,両朝合一にさいして大覚寺統の後亀山天皇より神器を受けた。1412年(応永19)8月,皇太子実仁(みひと)親王(称光天皇)に譲位して院政をとり行う。31年(永享3)に出家。33年10月20日,57歳で死去。和歌・連歌をよくし,琵琶・立花なども愛好した。陵は京都市伏見区深草坊町の深草北陵。
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百科事典マイペディア 「後小松天皇」の意味・わかりやすい解説

後小松天皇【ごこまつてんのう】

南北朝末期から室町初期の持明院統の天皇。在位1382年−1412年。後円融天皇の第1皇子。諱(いみな)は幹仁(もとひと)。1392年南北両朝合一に際し大覚寺統の後亀山天皇から神器を受けた。1412年譲位して院政をとり,1431年出家,法諱(ほうき)は素行智(そぎょうち)。和歌・連歌に長じ,琵琶なども愛好した。
→関連項目後円融天皇称光天皇神祇志料

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「後小松天皇」の解説

後小松天皇 ごこまつてんのう

1377-1433 南北朝-室町時代,第100代天皇(北朝第6代)。在位1382-1412。
永和3=天授3年6月27日生まれ。後円融天皇の第1皇子。母は藤原厳子(たかこ)(通陽門院)。父のあと6歳で即位。室町幕府は3代将軍足利義満(よしみつ)の全盛期で,明徳3=元中9年義満の提案をうけいれた南朝の後亀山(ごかめやま)天皇から神器をうけ,南北朝合一がなった。称光天皇,後花園天皇を即位させ,院政をおこなった。一休宗純は実子。永享5年10月20日死去。57歳。墓所は深草北陵(ふかくさのきたのみささぎ)(京都市伏見区)。諱(いみな)は幹仁(もとひと)。法名は素行智。著作に「むくさのたね」,日記に「後小松院宸記(しんき)」。
【格言など】あはれなり小田もる庵(いほ)におくかびの煙や民の思なるらむ(「新続古今和歌集」)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「後小松天皇」の意味・わかりやすい解説

後小松天皇
ごこまつてんのう

[生]天授3=永和3(1377).6.26. 京都
[没]永享5(1433).10.20. 京都
第 100代の天皇 (在位 1382~1412) 。名は幹仁 (もとひと) 。後円融天皇の第1皇子。母は通陽門院藤原厳子 (三条公忠の娘) 。弘和2=永徳2 (1382) 年6歳で即位し,太政大臣二条良基を摂政に任じた。元中9=明徳3 (92) 年,南北両朝が合一されると後亀山天皇から神器を受けた。応永 19 (1412) 年皇太子躬仁親王 (称光天皇) に譲位し,太上天皇として院政を行なった。永享3 (31) 年に出家し,法諱を素行智と称した。天皇の歌は『新続古今集』に収められている。なお宸筆の正本は焼失して伝わらないが,『後小松天皇宸記』というべきものがある。陵墓は京都市伏見区深草坊町の深草北陵。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「後小松天皇」の意味・わかりやすい解説

後小松天皇
ごこまつてんのう
(1377―1433)

初めは北朝第6代の天皇、のち第100代天皇(在位1382~1412)。名は幹仁(もとひと)。法名素行智。後円融(ごえんゆう)天皇の第1皇子。母は通陽門院藤原厳子(げんし)。父天皇の譲を受けて位につき、1392年(元中9・明徳3)閏(うるう)10月、南北両朝の合一により南朝後亀山(ごかめやま)天皇から神器を受け、後小松天皇の一統に帰した。1412年(応永19)位を皇子称光(しょうこう)天皇に譲って院政をとり、31年(永享3)出家後もこれを続け、永享(えいきょう)5年10月20日没す。御陵深草北陵に葬る。

[村田正志]

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「後小松天皇」の解説

後小松天皇
ごこまつてんのう

1377.6.27~1433.10.20

在位1382.4.11~1412.8.29

後円融天皇の第1皇子。名は幹仁(もとひと)。母は三条公忠の女通陽門院厳子。1382年(永徳2・弘和2)北朝の天皇として践祚(せんそ)。92年(明徳3・元中9)南北朝合一により南朝の後亀山天皇から神器を譲られる。在位中は足利義満の専権時代で,義満没後に太上法皇の尊号を贈ろうとしたが,義満の子義持に固辞された。1412年(応永19)譲位。31年(永享3)出家,法名素行智。東洞院御所で没した。

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旺文社日本史事典 三訂版 「後小松天皇」の解説

後小松天皇
ごこまつてんのう

1377〜1433
南北朝末期・室町前期の天皇(在位1382〜1412)
後円融天皇の第1皇子。初め北朝の皇統を継いだが,1392年南朝の後亀山天皇より神器を継承し,南北朝合体を実現。以後持明院統が皇位についた。

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367日誕生日大事典 「後小松天皇」の解説

後小松天皇 (ごこまつてんのう)

生年月日:1377年6月27日
室町時代の第100代(北朝第6代)の天皇
1433年没

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