服部郷
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「和名抄」賀陽郡服部郷の郷名を継いだものか。遺称地は不明であるが、服部郷図(県総合文化センター蔵)には北に西から刑部郷・久米保、北東に阿曾郷、南東に赤浜保、南に三須郷がみえ、東部に南北に長良山と推定される無図地が広がる。同図に従えば現総社市の南東端に推定され、明治二二年(一八八九)に窪木村(含大文字)、南・北両溝手村、長良村、金井戸村が合併して服部村が成立する。現存する服部郷図は元禄八年(一六九五)の書改で、奥書には「古本云」として永仁六年(一二九八)の破形による書改、暦応二年(一三三九)・天文五年(一五三六)の書写、元禄八年に虫破による書改を伝える。
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「和名抄」東急本に「波止利」と訓ずる。「三河国古蹟考」に「今呼大野旁近諸村、曰服部荘」とする説に始まり、南設楽郡鳳来町の大野付近とする説が一般的である。「日本地理志料」では「大野・吉田・乗本・下平・井代・能登瀬・名越・名号・細川・巣山・一色」をあげ、「大日本地名辞書」はその東北部を除き鳳来町の旧乗本村・山吉田村、新城市の旧吉川村とする。「八名郡誌」はほぼ同様であるが、伊勢神宮に神御衣を奉献する際に、大野の鈴木伝右衛門が生糸を献じ、これを岡本(現静岡県引佐郡三ヶ日町)の神服部(神目代)家に送ることから、機織に関係した服部の居住地と考えている。
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「和名抄」高山寺本・東急本に「波止利」の訓があり、刊本に「波土利」の訓がある。現総社市長良・窪木・北溝手・南溝手・金井戸を中心とした地域に比定される。郷名について「日本書紀」応神天皇二二年九月二二日条に載る、天皇が「葉田葦守宮」で吉備一族を封じた記事中に兄媛に与えたとある織部を比定する説や、応神天皇四一年二月是月条にみえる蚊屋衣縫との関係を考える説もあるが、いずれも推定にとどまる。郷域内に、賀陽郡の中心氏族で吉備一族の有力氏でもある賀夜氏の氏寺とみられる栢寺廃寺(白鳳期創建)や、式内社古郡神社があり、郡の中心的地域であったと考えられる。
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「和名抄」高山寺本は「波止利」、東急本は「八止利」の訓を付す。「延喜式」神名帳に「服織神社」がみえる。保延五年(一一三九)一一月二八日の政所下文(酒井神社文書)に「郡山□宮田参段事服部郷七尾前里弐拾捌坪之□」とみえ、栗真庄に属する当郷内七尾前里二八坪のうち三段が郡山新宮(現鈴鹿市酒井神社)に寄進されている。
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「和名抄」高山寺本・東急本ともに訓を欠く。「日本地理志料」は「波刀利」と読む。平城宮出土木簡に「安拝郡服織郷俵」とある。正治元年(一一九九)六月後鳥羽院庁下文案(太上法皇御受戒記後附)には「以阿閇郡印代・服部両郷内字重次名田畠荒野等、号般若庄」と記す。
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「和名抄」高山寺本に「波止利」、東急本に「波止理」の訓がある。現邑久郡長船町服部を中心とした地域に比定されている。推定郷域には全長約九〇メートルの前方後円墳花光寺山古墳(前期)、白鳳期創建の服部廃寺などがある。郷名については「日本書紀」応神天皇二二年九月一〇日条の、応神天皇が兄媛に与えた「織部」との関係を従来から指摘されているが、右の記事は伝承であり史実とみることはできない。
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「和名抄」高山寺本は「波止利」、東急本は「八止利」、刊本は「八土利」と訓ずる。ハトリはハタオリの転訛で、大和王権下で機織に携わった部民の設置されたところから地名・郷名となったものであろう。郷名は古代文献に所見がなく、「興福寺官務牒疏」に道詮寺が服部郷にあったと記す。
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「和名抄」東急本は「波止利」の訓を付す。「延喜式」神名帳記載の法美郡「服部神社」の鎮座地と考えられる。遺称地はないが、現福部村の塩見川・矢谷川の流域に比定される。
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「和名抄」高山寺本は「波止利」と訓ずる。東急本は「勝部」とする。郷域は現今立郡今立町北東部の服部川流域服部谷に比定される。
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「和名抄」高山寺本・刊本ともに「波止利」と訓ずる。「大和志」は「已廃存新荘村」として現大和郡山市新庄町に比定。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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