木山城跡(読み)きやまじようあと

日本歴史地名大系 「木山城跡」の解説

木山城跡
きやまじようあと

[現在地名]益城町寺迫 城の本

城の本しろのもとにある南の平野部を望む丘陵の南西端に築かれた中世城跡。城跡は本丸と称される南北約四〇メートル・東西約三〇メートルの平坦面と下方の民家周辺に土塁とみられるものがある。木山川が南裾部を流れ濠の役を果している。城の北東部の木山町内に居屋敷いやしきという地名が残り、木山氏の居館跡と推定される。

康永三年(一三四四)少弐頼尚は、阿蘇大宮司宇治惟時に南朝方の守る「木山・松丸城等」を攻撃するよう命じた(同年一〇月一九日「少弐頼尚書下写」阿蘇家文書)。しかし南朝方の勢力は衰えず、康暦元年(一三七九)今川了俊は「木山・合志辺の事ハ」南軍が近くにいるので、惟時の養子惟村と謀り(九月六日「今川了俊書状写」同文書)、永徳元年(一三八一)六月二九日には、深堀時久とともに「木山・津森両城」を攻撃した(同年七月日「深堀時久軍忠状」深堀文書)


木山城跡
きやまじようあと

[現在地名]菊鹿町木野 本分

上本分かみほんぶんの集落の東約二〇メートル、木野きの川と支流初田はつた川に挟まれた標高約一〇〇メートルの木野の台地にある。木野城・城野城とも記される。武茂を祖とする木野氏歴代の居城。山頂部分は一五〇平方メートルの平坦地となっており、曲輪跡や鞍部には堀切と推定される凹道があり、城跡東側の迫には木野氏菩提寺と伝える正教しようきゆう寺跡がある。康暦元年(一三七九)七月一七日の阿蘇惟村に参陣を促した今川了俊書状写(阿蘇家文書)に、

<資料は省略されています>

とあり、同年九月六日の今川了俊書状写(同文書)には「これの事ハ三年田と申候て、きのゝ城ニむかひあひて候所ニ、一昨日より城をとらせて、豊後勢をさしをきて候」とあって、当城が菊池氏の外城的役割を果し今川了俊方に対する最前線にあった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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