日本歴史地名大系 「木山城跡」の解説
木山城跡
きやまじようあと
字
康永三年(一三四四)少弐頼尚は、阿蘇大宮司宇治惟時に南朝方の守る「木山・松丸城等」を攻撃するよう命じた(同年一〇月一九日「少弐頼尚書下写」阿蘇家文書)。しかし南朝方の勢力は衰えず、康暦元年(一三七九)今川了俊は「木山・合志辺の事ハ」南軍が近くにいるので、惟時の養子惟村と謀り(九月六日「今川了俊書状写」同文書)、永徳元年(一三八一)六月二九日には、深堀時久とともに「木山・津森両城」を攻撃した(同年七月日「深堀時久軍忠状」深堀文書)。
木山城跡
きやまじようあと
とあり、同年九月六日の今川了俊書状写(同文書)には「これの事ハ三年田と申候て、きのゝ城ニむかひあひて候所ニ、一昨日より城をとらせて、豊後勢をさしをきて候」とあって、当城が菊池氏の外城的役割を果し今川了俊方に対する最前線にあった。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報