日本歴史地名大系 「迫村」の解説
迫村
さこむら
迫村
はざまむら
寛永一二年(一六三五)時には幕府領、元禄一四年(一七〇一)挙母藩領となり明治まで続く。寛延二年(一七四九)内藤氏入部時の村絵図(内藤家文書)をみると、飯野村から
迫村
せいむら
慶応四年(一八六八)の奉差上歎願書(勢井の保中文書)に村の状況を次のように記している。「当村之義ハ極山方霧霜深ク諸作共実のり悪鋪土地柄ニ付、往古者無高無役之処、羽柴秀吉公御治世之節、始メ而御検地御竿入ニ相成、御検地役八嶋久兵衛殿ニ而、高三十七石八斗余ニ被立置、其後徳川家より再御竿入ニ相成、小物成場端々角々迄御竿入ニ相成、右三十七石余之処百五石八斗八升七合ニ増高ニ相成」、ために村は困窮に陥り、家出・欠落・潰百姓多く、当時一一三軒あった家数も今では一七軒となり、手不足のため田畑はますます荒れ、慶応三年に至り「礑と差詰り、御年貢上納無致方延納ニ付而ハ村役人一同手鎖宿預ケ被申付、数日郷宿ニ詰居飯代銀相嵩ミ、難渋弥増無凌方も村中一同途方ニ暮、此時亡所之外無之と存候(後略)」とある。
迫村
さこむら
迫村
さこむら
迫村
さこむら
迫村
つじさこむら
迫村
さこむら
迫村
さこむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報