末信村
すえのぶむら
[現在地名]宇部市大字末信
厚東川の下流の左岸に広がり、村の東部は霜降岳の麓にあたる。北は吉見、東は川上、南は中山・奥壇、西は棚井の各村に接する。萩藩領で舟木宰判に属する。
暦応三年(一三四〇)の持世寺文書(「注進案」所収)に
<資料は省略されています>
とあり、厚東武実が「末延郷」の持世寺と「宇部郷」の河上寺を、後宇多・後醍醐両天皇の勅願寺であった元応寺(跡地は現京都市左京区)に、祈願所として管領するよう申し出ている。また貞治三年(一三六四)一〇月二〇日付浄名寺文書(「寺社証文」所収)の知行分目録には「末延郷四ケ小野内河中須崇西寄附」とあり、横瀬八幡宮縁起箱書には「長州厚東郡末延郷四ケ小野横瀬八幡宮永々流通者也」「永正十三年丙午五月十一日」とあるので、「末延郷」は現大字小野一帯をも含んでいたことになり、末信にある正八幡宮の厚東川左岸の氏子区域と重なることになる。
末信村
すえのぶむら
[現在地名]寺井町末信
寺井村の東、手取川と梯川の間の扇状地に位置する。当初、村内古屋敷に集落があったが、水害のため現在の丘陵地に移住したという(寺井野町史)。本願寺蓮如が文明一〇年(一四七八)の盂蘭盆会に記した御文をのち門弟の赤尾道宗が筆写しているが、その奥書によれば御文の正本は「加州すゑのふ行歓」が所持していた。正保郷帳によれば高六二九石余、田方二九町九反余・畑方七町余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印(末信区有文書)では高六四〇石、免四ツ六歩、小物成なし。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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