本庄城(読み)ほんじょうじょう

日本の城がわかる事典 「本庄城」の解説

ほんじょうじょう【本庄城】

埼玉県本庄市にあった平城(ひらじろ)。河岸段丘上に築かれた崖端城である。戦国時代には本庄氏の居城であり、江戸時代初めには本庄藩の藩庁が置かれた。本庄氏は武蔵七党の一つの児玉党を構成していた在地の武家一族で、平安時代末期にこの地に定着した。本庄氏は戦国時代には関東管領家の山内上杉家に臣従していたが、関東管領上杉憲政が河越夜戦、神川の戦いで北条氏に敗れ、1551年(天文20)には越後に逃亡するに及んで北条氏に臣従した。これは本庄氏第5代の実忠のときのことで、実忠はその後1556年(弘治2)に本庄城を築き、それまでの東本庄館(同市)から居城を移した。この新城建設について、古文書の記述の違いから、北条方の部将として上州の上杉勢への備えのためとするものと、東の古河公方家の勢力を迎撃するために築いたとする2つの説がある。実忠は1560年(永禄3)、越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)が旧主上杉憲政を擁して関東に侵攻すると、北条氏から離反してこれに従った。その翌年には景虎の小田原城攻撃にも従軍している。しかし、北条氏はその後攻勢に転じ、本庄城は1567年(永禄10)には厩橋前橋)へ向かう途中の北条軍による攻撃を受けて落城し、実忠は再び北条氏に服属した。1590年(天正18)の豊臣秀吉の北条氏攻め(小田原の役)では、実忠から家督を継いだ本庄近朝は小田原城に籠城したが、同城が落城した際に自害。その後間もなく本庄城も落城したことにより本庄氏は滅亡した。この戦いの後、徳川家康が関東に入部すると、本庄城には家康臣下の小笠原信嶺が信州松尾から1万石で入城し、1598年(慶長3)に信嶺の養嗣子信之によって正式に本庄藩が立藩され、本庄城はその藩庁となった。しかし、1612年(慶長17)には信之が下総国古河に加増移封となったのに伴い本庄藩は廃藩となり、本庄城も廃城となった。かつての城域は現在、市役所、山稲荷神社、城下公園となっているが遺構はほとんど残っておらず、私有地にわずかに土塁が残っているのみである。JR高崎線本庄駅から徒歩15分。

出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報

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