明治〜昭和期の商業美術家,グラフィックデザイナー
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
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日本画家、図案家。松山に生まれる。本名朝彦(ともひこ)。1901年(明治34)に東京美術学校日本画科を卒業、翌年東京外国語学校仏語科を修了。この年、パリ万国博覧会から黒田清輝(せいき)がもたらしたアール・ヌーボーに刺激を受けて図案研究を志し、三越(みつこし)の図案部に籍を置いて、ことにグラフィック・デザインの分野の開拓を目ざした。12年の光風会結成に参加。22年(大正11)から翌年にかけてヨーロッパ各国を巡り、帰国すると図案研究を目的とする七人社をおこし、展覧会開催や雑誌『アフィッシュ』の刊行など、商業美術の振興に力を注いだ。35年(昭和10)多摩帝国美術学校(現多摩美術大学)が創立されると校長と図案科主任教授を兼務。55年に恩賜賞を受賞。『非水図案集』『非水百花譜』などの著書がある。
[原田 実]
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…黒田清輝や浅井忠もそのなかにいた。黒田から刺激を受けた杉浦非水(1876‐1965)は,日本でグラフィック・デザインの分野を切り開いた。1900年に発刊された《明星》では,一条成美(1877‐1910),藤島武二らがアール・ヌーボー様式の表紙,挿絵を描いた。…
…美術団体。黒田清輝を中心に結ばれた外光派の洋画団体白馬会が1911年(明治44)に解散すると,その有力メンバーであった中沢弘光,山本森之助,三宅克己,杉浦非水,小林鐘吉,跡見泰,岡野栄を発起人として翌12年3月に結成され,その年の6月,上野竹之台で第1回展覧会を開催した。当時,印象派以後の新しい美術思潮の刺激を受け,個性的な表現を唱える若い層が増大していたが,この会に拠(よ)る画家たちは黒田の穏健な画風を引き継ぎ,官展系の団体として結束を崩さなかった。…
…明治期になるとリトグラフの技法が入り,明治30年代すなわち1900年前後からアール・ヌーボーの影響があらわれ,日本にも近代的なポスターが誕生する。橋口五葉,杉浦非水(1876‐1965)などがアール・ヌーボー風のポスターを描き,グラフィック・デザインの新しい歴史を切り開く。1920年代に入ると村山知義,柳瀬正夢の構成主義的なポスターや山名文夫(あやお)(1897‐1980),河野鷹思(こうのたかし)(1906‐ )などのモダニズム系のポスターが目だつようになる。…
※「杉浦非水」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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