日本大百科全書(ニッポニカ) 「村田宗珠」の意味・わかりやすい解説
村田宗珠
むらたそうしゅ
生没年不詳。戦国時代初期の茶人。『山上宗二記(やまのうえそうじき)』には村田珠光(じゅこう)の弟子とも遺跡・蹟目(あとめ)とも所見する。弟子で養嗣子(しし)とされたものか。1510年(永正7)大徳寺真珠庵(しんじゅあん)の「一休和尚(おしょう)三十三回忌出銭帳」に「下京(しもぎょう)宗殊」とみえる。京都下京四条に住み、六畳や四畳半の茶室を構えていたところから下京茶湯(者)とよばれ(『宗長(そうちょう)日記』)、鷲尾隆康(わしのおたかやす)の日記『二水(にすい)記』によれば、大永(だいえい)・享禄(きょうろく)(1521~32)のころ、青蓮院門跡尊鎮(しょうれんいんもんぜきそんちん)法親王や曼殊院(まんしゅいん)門跡尊運法親王など貴紳の茶事に参仕しており、当時における数奇(すき)の張本であり、市中に山居する隠者のごとくであったとの評判を得ている。珠光が一休から与えられた圜悟(えんご)の墨跡(ぼくせき)、茶入抛頭巾(なげずきん)、あるいは珠光が能阿弥(のうあみ)から相伝の『君台観左右帳記(くんだいかんそうちょうき)』など、各種名物を伝えており、とくに抛頭巾については、珠光の忌日に圜悟の墨跡を掛け、この茶入に引屑(ひくず)(粗茶)を入れて茶の湯を手向(たむ)けるよう遺言されたと伝える。
[村井康彦]