曼殊院(読み)マンシュイン

デジタル大辞泉 「曼殊院」の意味・読み・例文・類語

まんしゅ‐いん〔‐ヰン〕【曼殊院】

京都市左京区にある天台宗の門跡寺院。延暦年間(782~806)最澄比叡山に建立、東尾坊と称したのに始まる。明暦2年(1656)良尚法親王が現在地に造営。所蔵の絹本着色不動明王像・古今和歌集国宝竹内門跡。まんじゅいん。

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精選版 日本国語大辞典 「曼殊院」の意味・読み・例文・類語

まんしゅ‐いん‥ヰン【曼殊院】

  1. ( 「まんじゅいん」とも ) 京都市左京区一乗寺竹ノ内町にある天台宗の寺。延暦年間(七八二‐八〇六)最澄が比叡山に創建、のち西塔(さいとう)北谷に移って東尾坊と号した。天暦元年(九四七北野神社別当寺となり、天仁年間(一一〇八‐一〇)忠尋のとき現名を名乗る。のち宮門跡となり現在地に移転。絹本著色不動明王像(黄不動)、古今和歌集(曼殊院本)は国宝。書院の庭は国名勝。竹内門跡。

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日本歴史地名大系 「曼殊院」の解説

曼殊院
まんしゆいん

[現在地名]左京区一乗寺竹ノ内町

比叡山の南西麓、修学院しゆがくいん離宮の南に位置する天台宗の門跡寺院。竹内たけのうち門跡とも称する。本尊阿弥陀如来。寺伝によれば、延暦年間(七八二―八〇六)最澄が比叡山上に一宇を創立し、以後、円仁・安恵・最円・玄昭・玄鑒・覚恵・慈恵・是算と継承され、是算の代に比叡山西塔北さいとうきた谷に移り、東尾とうび坊と号したのが寺基の始まりという。

〈京都・山城寺院神社大事典〉

〔寺史〕

天仁年間(一一〇八―一〇)の忠尋の代に曼殊院と改めたと伝え、忠尋が京都北野社の別当職を兼補されてより(観応元年四月一八日「慈厳僧正譲状」曼殊院文書)、永久年間(一一一三―一八)には房舎とは別に「竹内門跡 院宇始在北山(曼殊院門跡次第)と、門跡院地を葛野かどの北山きたやま(現京都市北区)の地に開いた。以来、曼殊院は鎌倉時代を通じ比叡山西塔に本房、北山に院地を兼備した。観応元年(一三五〇)の前掲慈厳僧正譲状にも、「曼殊院門跡 一寺院房舎事 曼殊院西塔北谷 禅林高房在仏間号長寿院灌頂堂以下在之金戒高 代々墓所也」とみえ、西塔北谷に本拠をもっていたことを知るが、北山にあった院地は「伝称、竹内寺院旧在北山、至良什時、道義取之入鹿苑寺内而以他地、代之授良什(「続本朝通鑑」応永一一年一二月二五日条)と足利義満の北山山荘の造営によって禁裏の近辺に移された(「諸門跡譜」下巻曼殊院)。その後、文明年間(一四六九―八七)伏見宮貞常親王の子慈運法親王が、三三世住持として入寺し覚恕・良恕と代々法親王が院主となるに及んで(諸門跡譜)、宮門跡寺院となった。明暦二年(一六五六)八条宮智仁親王の子良尚法親王が院主のとき、洛中より一乗寺いちじようじの現在の地に移った(天台座主記)

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改訂新版 世界大百科事典 「曼殊院」の意味・わかりやすい解説

曼殊院 (まんしゅいん)

京都市左京区にある天台宗の門跡寺院。〈竹内門跡〉ともいう。寺伝によれば,延暦年間(782-806)最澄が比叡山に創建し,是算の代に比叡山西塔北谷に移り東尾(とうび)坊と号したのが起源といい,その別院として京都に営まれた。天仁年間(1108-10)忠尋のとき曼殊院と改め,永久年間(1113-18)洛北の北山に別院を建立した。忠尋以後,当寺門跡が北野天満宮別当を兼ね(是算以来とする説もある),同社を管轄して明治に至った。室町時代初期,足利義満の北山山荘造営にともない,禁裏の近くに移転。文明年間(1469-87)慈運法親王が入寺してから代々法親王入寺の慣習が生じ,宮門跡寺院に列した。1656年(明暦2)良尚法親王のとき現在地に移転した。現在の本堂(大書院)や書院,付属の茶室(以上,重要文化財),景趣に富む庭園は当時の建造である。良尚法親王は書道,絵画,茶道,香道,華道,古典の造詣深く,収集した書画や茶道具や古典籍が多く残されている。寺宝のうち〈黄不動〉で知られる《絹本著色不動明王像》(秘仏,平安時代),《古今和歌集》(曼殊院本,平安時代)は国宝。ほかに宸翰をはじめ多くの古文書もある。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「曼殊院」の意味・わかりやすい解説

曼殊院
まんしゅいん

京都市左京区一乗寺竹ノ内町にある天台宗門跡(もんぜき)寺。竹内(たけのうち)門跡ともいう。本尊は阿弥陀如来(あみだにょらい)。最澄(さいちょう)が比叡山(ひえいざん)に建立し阿弥陀仏を安置したのを始まりとするが、寺名不明。のち是算(ぜさん)が西塔(さいとう)に移し東尾坊(とうびぼう)と称し、947年(天暦1)北野神社創立時に是算が別当(べっとう)となりここに移り、天仁(てんにん)年間(1108~10)尋忠(じんちゅう)のとき曼殊院と改称。のち北山に移り金閣寺建立のため禁裏付近に移転、文明(ぶんめい)年間(1469~87)慈運法親王(じうんほっしんのう)が入寺して門跡寺となった。1656年(明暦2)良尚法親王が現地に再建、大書院(おおしょいん)(本堂)、小(こ)書院、庫裡(くり)などが建つ。小堀遠州好みといわれる八窓席(はっそうせき)の茶室(国重要文化財)や枯山水の庭園(国名勝)は名高い。寺宝には、園城寺(おんじょうじ)の黄不動を模した「絹本着色不動明王像」、平安時代の『古今和歌集』(ともに国宝)、後奈良(ごなら)天皇宸筆(しんぴつ)の紺紙金泥般若心経(はんにゃしんぎょう)、花園(はなぞの)天皇宸翰(しんかん)御消息(ごしょうそく)、後土御門(ごつちみかど)・後柏原(ごかしわばら)両天皇御詠草(御歌巻物)、玄関障壁画『竹虎図』、池坊(いけのぼう)専好立花図、論語総略(以上、国重要文化財)などのほか、仏教典籍、古文書類も多い。

[塩入良道]

『『古寺巡礼 京都22 曼殊院』(1978・淡交社)』

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百科事典マイペディア 「曼殊院」の意味・わかりやすい解説

曼殊院【まんしゅいん】

京都市左京区一乗寺にある天台宗の門跡寺院。本尊阿弥陀如来。最澄が比叡山に創建し是算が西塔に移建した東尾坊が起源と伝え,1656年良尚法親王のとき現地に移り,竹内門跡と呼ばれた。大小の書院と庭園で有名。〈黄不動〉等の絵画,源氏物語古今集古写本等寺宝が多い。
→関連項目一乗寺菅原荘毛益

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「曼殊院」の意味・わかりやすい解説

曼殊院
まんしゅいん

京都市左京区一乗寺竹ノ内町にある最澄の創建になる天台宗の寺院。初め延暦年間 (782~806) に比叡山に建てられたが,天慶年間 (938~957) に西塔北谷に移され東尾坊と号し,北野神社の別当寺に補せられた。のち曼殊院に改められ,北山,さらに御所の付近に移転された。文明年間 (1469~87) 慈運法親王の入住があってから宮門跡に列せられ,明暦2 (1656) 年現在の地に移り,竹内門跡と俗称されるようになった。『源氏物語』『古今和歌集』 (→曼殊院本古今集。国宝) の古写本などを蔵している。

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デジタル大辞泉プラス 「曼殊院」の解説

曼殊院

京都府京都市左京区にある天台宗門跡寺院。延暦年間に最澄が比叡山に建立した一宇が起源と伝わる。「竹内(たけのうち)門跡」ともいう。本尊は阿弥陀如来。庭園は国の名勝に指定。

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