比叡山の南西麓、
〈京都・山城寺院神社大事典〉
天仁年間(一一〇八―一〇)の忠尋の代に曼殊院と改めたと伝え、忠尋が京都北野社の別当職を兼補されてより(観応元年四月一八日「慈厳僧正譲状」曼殊院文書)、永久年間(一一一三―一八)には房舎とは別に「竹内門跡 院宇始在北山」(曼殊院門跡次第)と、門跡院地を
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
京都市左京区にある天台宗の門跡寺院。〈竹内門跡〉ともいう。寺伝によれば,延暦年間(782-806)最澄が比叡山に創建し,是算の代に比叡山西塔北谷に移り東尾(とうび)坊と号したのが起源といい,その別院として京都に営まれた。天仁年間(1108-10)忠尋のとき曼殊院と改め,永久年間(1113-18)洛北の北山に別院を建立した。忠尋以後,当寺門跡が北野天満宮別当を兼ね(是算以来とする説もある),同社を管轄して明治に至った。室町時代初期,足利義満の北山山荘造営にともない,禁裏の近くに移転。文明年間(1469-87)慈運法親王が入寺してから代々法親王入寺の慣習が生じ,宮門跡寺院に列した。1656年(明暦2)良尚法親王のとき現在地に移転した。現在の本堂(大書院)や書院,付属の茶室(以上,重要文化財),景趣に富む庭園は当時の建造である。良尚法親王は書道,絵画,茶道,香道,華道,古典の造詣深く,収集した書画や茶道具や古典籍が多く残されている。寺宝のうち〈黄不動〉で知られる《絹本著色不動明王像》(秘仏,平安時代),《古今和歌集》(曼殊院本,平安時代)は国宝。ほかに宸翰をはじめ多くの古文書もある。
執筆者:藤井 学
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京都市左京区一乗寺竹ノ内町にある天台宗門跡(もんぜき)寺。竹内(たけのうち)門跡ともいう。本尊は阿弥陀如来(あみだにょらい)。最澄(さいちょう)が比叡山(ひえいざん)に建立し阿弥陀仏を安置したのを始まりとするが、寺名不明。のち是算(ぜさん)が西塔(さいとう)に移し東尾坊(とうびぼう)と称し、947年(天暦1)北野神社創立時に是算が別当(べっとう)となりここに移り、天仁(てんにん)年間(1108~10)尋忠(じんちゅう)のとき曼殊院と改称。のち北山に移り金閣寺建立のため禁裏付近に移転、文明(ぶんめい)年間(1469~87)慈運法親王(じうんほっしんのう)が入寺して門跡寺となった。1656年(明暦2)良尚法親王が現地に再建、大書院(おおしょいん)(本堂)、小(こ)書院、庫裡(くり)などが建つ。小堀遠州好みといわれる八窓席(はっそうせき)の茶室(国重要文化財)や枯山水の庭園(国名勝)は名高い。寺宝には、園城寺(おんじょうじ)の黄不動を模した「絹本着色不動明王像」、平安時代の『古今和歌集』(ともに国宝)、後奈良(ごなら)天皇宸筆(しんぴつ)の紺紙金泥般若心経(はんにゃしんぎょう)、花園(はなぞの)天皇宸翰(しんかん)御消息(ごしょうそく)、後土御門(ごつちみかど)・後柏原(ごかしわばら)両天皇御詠草(御歌巻物)、玄関障壁画『竹虎図』、池坊(いけのぼう)専好立花図、論語総略(以上、国重要文化財)などのほか、仏教典籍、古文書類も多い。
[塩入良道]
『『古寺巡礼 京都22 曼殊院』(1978・淡交社)』
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