日本歴史地名大系 「来見村」の解説
来見村
くるみむら
周桑平野の西南部、
慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の
古来、道前と道後を結ぶ中山越の登り口にあたっていた。戦国末期から長宗我部元親の支配となり、小早川隆景らの大領主時代を経て、寛永一二年(一六三五)に松平定行が松山に封ぜられ、松山藩領として幕末に至る。
宝永七年(一七一〇)の「周布郡大手鏡」によると、田畑は「四拾町八反、内二拾町一反田方 二拾町七反畑方 享保九辰年地坪被仰付候」とあり、新田畑は明和三年(一七六六)一二月御改畝で五町二反四畝二六歩、うち一反八畝五歩が田方となっている。
来見村
くるみむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報