第二次世界大戦後に成立したガット(世界貿易機関=WTOの前身)は、原則として貿易を自由化し加盟国間にそれを無差別に適応するという基本理念に従って、1960年代まで数回の貿易・関税交渉を行ってきたが、そのなかで最大の成果が得られた交渉が、ケネディ・ラウンドとよばれる第6回の交渉であり、それによって関税は大幅に引き下げられ、自由貿易体制は大きく前進した。しかし70年代に入ると、アメリカの相対的な経済力の低下により保護主義が台頭し、一方ヨーロッパ共同体(EC。EU=ヨーロッパ連合の前身)でも地域主義化の傾向を強めるなど、世界経済の保護主義化の気運のもとでガット体制は動揺した。このような背景のもとに、日本やカナダなどのイニシアティブによって、73年に東京で開催されたガット閣僚会議の決議に基づいて開始されたのが、東京ラウンドまたは新国際ラウンドとよばれる多角的貿易交渉である。
その目標は、世界貿易の拡大と自由化を推進して各国の福祉を向上すること、とくに開発途上国の貿易の拡大とその利益を確保することなど、基本的な理念はケネディ・ラウンドのそれと同じであるが、東京ラウンドで重点が置かれた交渉課題は、ケネディ・ラウンドで残された非関税障壁の軽減や廃止の問題、保護主義の気運のなかで乱用のおそれのあるセーフガード措置の監視体制や発動要件の明確化の問題、一般的な目標と農業の特殊性をどう調和させるかという問題、開発途上国の経済発展との関連で熱帯産品をどう優先的に取り扱うかという問題、などであった。
当初は1975年中に終了することを目ざしたが、開始直後に第一次の石油危機が発生して交渉は一時中断されるなどの曲折を経て、約6年後の79年に主要諸国は調印にこぎ着けた。交渉はいくつかのグループに分かれて行われ、関税については、主要諸国の工業品の関税率は80年から8年間にわたって平均で約33%引き下げることが決定された。非関税障壁については、相殺関税の発動要件や補助金に関する措置を規定した協定、ダンピング防止税の発動要件を明確化した協定など、八つの協定が生まれた。そのほかでは、熱帯産品の関税引下げや開発途上国に対する特別優遇措置の容認などの成果もあるが、緊急輸入制限の発動要件の明確化やその監視制度を規定する多角的なセーフガードに関する規律の作成については、その選択的適用をめぐって各国の意見が対立し、合意するまでには至らなかった。
[志田 明]
『蔦信彦著『東京ラウンド――80年代の国際貿易体制』(1979・ニュートンプレス)』▽『日本経済新聞社編・刊『80年代の貿易ルール――東京ラウンドのすべて』(1979)』▽『東京ラウンド研究会編『東京ラウンドの全貌』(1980・日本関税協会)』▽『日本関税協会編・刊『東京ラウンド関係協定集』(1980)』▽『池田美智子著『ガットからWTOへ――貿易摩擦の現代史』(ちくま新書)』
GATT(ガツト)が主催した第7回一般関税交渉の通称。1973年9月から5年7ヵ月をかけ,99ヵ国の参加によりジュネーブを中心に行われた大規模な多国間貿易交渉である。MTN交渉ともいう。GATT閣僚会議で採択された〈東京宣言〉で交渉がスタートしたのでこの名がある。ケネディ・ラウンド後1970年代に入って,71年8月ニクソン・アメリカ大統領による10%の輸入課徴金適用,金兌換(だかん)の停止などを含めた新経済政策の発表を契機に,IMF-GATT体制は動揺することになった。日本は,71年11月の第27回GATT総会において,このような状況のもとで保護貿易主義に向かうことは世界全体の不利益であり,早期に新しい貿易交渉を開催すべきことを主張し,新しい国際ラウンドの開催を提唱した。73年9月東京で開かれたGATT閣僚会議で,〈東京宣言〉が採択され,東京ラウンドが正式に開始されることとなった。第1次石油危機,ウォーターゲート事件によるアメリカ通商法の遅れなどにより長期間かかったが,79年に交渉はまとまった。
こうして合意された〈ジュネーブ議定書〉により,関税は80年1月から8年間毎年均等引下げが行われることとなった。平均引下げ率は約40%で,引下げ後の最終平均税率はアメリカ4%強,EC5%弱,日本約3%となり,日本が最も低い水準となる。東京ラウンドではまた非関税障壁(NTB)にも重点がおかれ,貿易の技術的障害に関する(スタンダード)協定,輸入許可手続に関する(ライセンシング)協定等非関税措置に関する六つの国際協定,民間航空機に関する協定,貿易の枠組みの改善に関する合意および酪農品・食肉に関する2取決め,農業分野の協議枠組みが合意された。
→GATT
執筆者:香田 忠維
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…また非関税障壁軽減の重要性が指摘されたにもかかわらず,交渉の成果は〈アンチ・ダンピング・コード〉の設定にとどまった。これらの諸問題を解決し,より一層の貿易自由化を促すため73年9月に東京で開催されたGATT閣僚会議では,〈東京宣言〉が発表され,東京ラウンド交渉が正式に開始された。 当初75年に交渉の終了を予定した東京ラウンドは,1973年秋の石油危機とその後の世界経済の混乱,先進諸国での深刻な不況と保護主義の台頭といったさまざまな出来事によって難航をきわめ,ようやく5年7ヵ月の長丁場のすえ79年に実質的な終結をみた。…
…第6回までは,関税引下げ交渉が中心であったが,なかでも1964‐67年の第6回の一般関税交渉(一般にケネディ・ラウンドと呼ばれる)は,平均35%の関税引下げを行うという画期的なものであった。第7回の東京ラウンドでは,関税引下げのみならず,非関税障壁の撤廃,農産物問題,開発途上国への優遇措置など幅広い交渉が行われた。1986‐93年のウルグアイ・ラウンドでは,貿易のなかで比重の高まったサービス貿易や知的所有権,保護主義的傾向の強い農業などがおもな対象とされ,これにより日本も米の輸入(部分開放)を受け入れることになった。…
…すなわち,第2次大戦後,GATTによる関税交渉によって関税率が徐々に引き下げられてきたが,とくにケネディ・ラウンドにおける大幅な関税一括引下げは,それまで関税の陰に隠れてあまり目立たなかった非関税障壁を貿易阻害要因として注目させるようになった。そして,1973年から79年にかけての第7回貿易交渉(東京ラウンド)では,関税引下げとともに,非関税障壁に関する交渉が進行し,いくつかの協定が締結された。さらに1986‐93年のウルグアイ・ラウンドでは,日本の代表的な非関税障壁である〈残存輸入制限〉は,米を唯一の例外としてすべて廃止された。…
…60年代の貿易自由化は関税の引下げを中心に進展したが,なかでも63年に始まり67年に妥結したケネディ・ラウンド関税一括引下げ交渉は,それまでの多角的貿易交渉のうち最も大がかりなもので,鉱工業製品の関税率は平均33%引き下げられるという画期的な成果をあげた。次いで71年に始まる新国際ラウンド(東京ラウンド)では,関税引下げのほか非関税障壁の軽減撤廃や農産物貿易の自由化問題がとりあげられることとなった。しかし実際の交渉経過は,アメリカの指導力の低下や73年秋の石油危機とその後の対応に各国政府が追われたこと等によって難航し,ようやく79年4月に実質的な合意に達した。…
※「東京ラウンド」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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