蜂須賀 茂韶
ハチスカ モチアキ
- 肩書
- 貴院議長,文相,徳島藩主
- 別名
- 通称=氏太郎 千松丸 淡路守 号=誠堂 霰笠
- 生年月日
- 弘化3年8月8日(1846年)
- 出生地
- 江戸・大名小路
- 出身地
- 徳島県
- 経歴
- 明治元年徳島藩主。維新後版籍奉還で藩知事。4年廃藩置県で辞任。5年英国に留学、12年帰国、外務省御用掛となり、大蔵省関税局長、15年フランス公使、スペイン、ポルトガル、スイス、ベルギー公使兼任。19年元老院議官、23年東京府知事を経て、29年第2次松方正義内閣の文相に就任。のち貴院議員、同議長、枢密顧問官、大正5年会計調査官などを務めた。また北海道に雨竜農場を経営、日本地理学会会長も務めた。能楽を嗜み、俳句をよくするなど文化方面にも功績があり、歌集に「うしほのおと」がある。明治17年侯爵。
- 受賞
- 従一位
- 没年月日
- 大正7年2月10日
- 家族
- 父=蜂須賀 斉裕(徳島藩主)
出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報
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蜂須賀 茂韶
ハチスカ モチアキ
江戸時代末期・明治期の政治家,侯爵 貴院議長;文相。
- 生年
- 弘化3年8月8日(1846年)
- 没年
- 大正7(1918)年2月10日
- 出生地
- 江戸・大名小路
- 出身地
- 徳島県
- 別名
- 幼名=氏太郎,千松丸,通称=淡路守,号=誠堂,霰笠
- 主な受賞名〔年〕
- 勲一等
- 経歴
- 徳島藩主・蜂須賀斉裕の長男に生まれ、慶応4年襲封。維新後、版籍奉還で徳島藩知事。4年廃藩置県で辞任。5年英国に留学、12年帰国、外務省御用掛となり、のち大蔵省関税局長、15年駐フランス公使、スペイン、ポルトガル、スイス、ベルギー公使兼任。17年侯爵。19年元老院議官、23年東京府知事を経て、23年〜大正7年貴院議員。この間、貴院議長、第2次松方内閣の文相、枢密顧問官、会計調査官などを務めた。また北海道に雨竜農場を経営、日本地理学会会長も務めた。能楽を嗜み、俳句をよくするなど文化方面にも功績があり、歌集に「うしほのおと」がある。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
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蜂須賀茂韶 (はちすかもちあき)
生没年:1846-1918(弘化3-大正7)
幕末・明治期の政治家。斉裕の子。1868年(明治1)1月徳島藩主。それまで淡路守と称し,1862年(文久2)上京し,孝明天皇の石清水社行幸に供奉した。また翌年鳥取藩主池田慶徳らと七卿および長州藩にたいする寛典を朝廷に要請した。公武合体をもとめる姿がうかがえる。維新後議定になり,民部官知事などを歴任し,72年イギリスに留学。帰国後外交官として活躍し,また東京府知事,貴族院議長,文相,枢密顧問官などを歴任した。この間89年から北海道に農場を開き,北海道開拓にもかかわった。
執筆者:池田 敬正
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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蜂須賀茂韶
没年:大正7.2.10(1918)
生年:弘化3.8.8(1846.9.28)
阿波徳島藩最後の藩主,明治期の官僚。号は誠堂,霰笠。父は同藩主斉裕,母は側室たま。将軍徳川家茂の茂の字を下賜された。明治1(1868)年1月襲封し,討幕勢力に加わる。明治政府で議定,刑法事務局輔,民部官知事を務め,版籍奉還をいち早く主張した。5年から12年まで英国に留学,帰国後外務省御用掛に任じられた。その後,駐フランス公使(スペイン,ポルトガル,スイス,ベルギーも兼任)に転じ,元老院議官,貴族院議員・議長,東京府知事,文部大臣(第2次松方正義内閣)などを歴任した。その間侯爵に叙せられ,華族の資産活用に尽力したほか,俳句,能楽,相撲などの振興に努めた。<参考文献>『徳島県史』5巻
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
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蜂須賀茂韶 はちすか-もちあき
1846-1918 幕末-大正時代の大名,政治家。
弘化(こうか)3年8月8日生まれ。蜂須賀斉裕(なりひろ)の子。慶応4年阿波(あわ)徳島藩主蜂須賀家14代となる。維新後議定(ぎじょう)となり,明治5年イギリスへ留学。帰国後,外務省御用掛をへてフランス公使,東京府知事,貴族院議長,第2次松方内閣文相,枢密顧問官などをつとめた。侯爵。大正7年2月10日死去。73歳。幼名は氏太郎。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
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世界大百科事典(旧版)内の蜂須賀茂韶の言及
【徳島藩】より
…1841年(天保12)三好郡山城谷に起こった一揆は年貢の軽減,タバコの自由販売を要求するもので,美馬郡から阿波郡へと藍作地帯にまで波及した。 62年(文久2)蜂須賀茂韶(もちあき)は京都守護のため上洛,徳島藩も幕末の政争にまきこまれていった。淡路城代家老稲田邦稙(くにたね),天羽生岐城(あもうきじよう),小杉榲邨(すぎむら),安芸梅軒らが討幕運動に参加した。…
※「蜂須賀茂韶」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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