日本歴史地名大系 「東山道武蔵路」の解説
東山道武蔵路
とうさんどうむさしみち
日本の律令体制は中国の州県制にならって国郡制を整え、都京を核として諸国を畿内・七道に編成した。七道諸国には同時に官道が整備され、都京から放射状に全国へ延びていた。これらの官道は発掘調査や歴史地理学的研究により、多くは直線道であることがわかっている。
武蔵国は宝亀二年(七七一)東海道に所属替えが行われるまで東山道に属していたが、信濃国から上野国に至る官道としての東山道は、上野国南部を横断して同国属
山道
兼承
海道
、公使繁多、祗供難
堪、其東山駅路、従
上野国新田駅
達
下野国足利駅
、此便道也、而枉従
上野国邑楽郡
経
五ケ駅
、到
武蔵国
、事畢去日、又取
同道
向
下野国
、今東海道者、従
相模国夷参駅
達
下総国
、其間四駅、往還便近、而去
此就
彼損害極多、臣等商量、改
東山道
属
東海道
、公私得
所、人馬有
息、奏可」。ここには上野国からいったん武蔵国へ寄り、再び同じ道をたどって下野国へ行くことの不合理さがあげられている。それゆえに相模国側からの東海道の利用のほうが便利であり、人馬も浪費が少ない。実際、これ以前からも武蔵国へは東山道・東海道の双方からの通行が頻繁であった。「上野国邑楽郡より五ケ駅を経て武蔵国に至る」の「五ケ駅」については、固有の駅名なのか五ヵ所の駅数を意味するのか解釈が分れている。しかし最近平城京の長屋王邸宅跡から出土した木簡に「武蔵国□□郡宅□駅菱子一斗五升 霊亀三年十月」と記されたものがあり、一字判読できないものの、従来知られていなかった駅名で、菱子は北武蔵に産出することが知られていることから、霊亀三年(七一七)北武蔵に存在した駅と思われ、「五ケ駅」は駅数である可能性が高い。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報