東西貿易(読み)とうざいぼうえき(その他表記)east-west trade

改訂新版 世界大百科事典 「東西貿易」の意味・わかりやすい解説

東西貿易 (とうざいぼうえき)
east-west trade

社会主義諸国(東)と資本主義諸国(西)との間の貿易をいう。第2次大戦後,東側ではソ連を中心とするCOMECONコメコン)体制によって域内の貿易・国際金融の秩序を形成,西側ではGATT(ガツト)とIMF(国際通貨基金)を中心とするアメリカ主導型の貿易・金融体制を創設した。この二つの体制それ自体戦後30年余を経て変質しているので,各域内貿易に対して,東西貿易も増加してきた。COMECON内国際分業への不満,西側企業の販路拡大努力,中国の対ソ離反・対西側諸国接近などは東西貿易拡大の原動力となったが,他方,米ソ間の緊張の高まりは,東西貿易抑制の要因となってきた。なお,国連推計によると,1980年実績は,世界の商品貿易に占める東西貿易の比率は5%で,東-東貿易6%をやや下回った。これに対して西側工業国間貿易は46%を占めた。一般的にいうと市場経済体制のほうが貿易志向度は強い。

東西貿易の盛衰は,両体制の主導国である米・ソの対外政策に強く影響される。アメリカの主導により1949年設立されたCOCOMココム)の対共産国禁輸品目リスト(COCOMリスト)や51年に発足したCOCOMの分科会ともいうべきCHINCOMチンコム)の対中国禁輸品目リスト(CHINCOMリスト)は,アメリカの対共産圏・対中国政策を反映した安全保障措置(ともに武器関連商品・技術の禁輸措置)にほかならない。しかし,これも超大国間の緊張の緩和・激化に応じて運用が変わった。

 第2次大戦後,米ソ間の緊張は高まり,これは1950-53年の朝鮮戦争時にピークに達した。COCOM,CHINCOMはいずれもこの時期に成立した。東側では1949年にCOMECONを設立し域内貿易秩序を形成,西側はIMF-GATT体制を確立した。この時期は冷戦期と呼ばれ,相互に域内の経済回復に没頭していた。中ソ関係はまだ蜜月状況にあった。

 1954年以降は,東西両体制内に東西貿易に対する抑制政策に不協和音が目立ちはじめ,東西貿易は増加に向かう。東側はソ連が対西側貿易を積極化し,西側ではヨーロッパと日本が積極化した(日本はソ連と1956年に国交を回復)。こうして,COCOM,CHINCOMの緩和が実質的に進展した。この間,中ソ対立が表面化し,60年には初めて中ソ公開論争が起こった。中国はソ連を修正主義者と呼び,みずからの対外経済政策として自力更生を標榜(ひようぼう)し,閉鎖的政策を続けた。なお日中間では1952年に日中民間貿易協定による民間貿易が始まったが,たびたび政治的変動にさらされ,規模も小さかった(〈日中貿易〉の項参照)。1954-71年期は,中国を除く,東西間貿易拡大期とみなすことができる。米ソ間の緊張緩和,東側での生産効率上昇要請,消費財需要の充足要請と西側の販路拡大要請が合致して東西貿易を拡大させた。中国は政治論争は絶えず行ったが,日本との貿易は覚書貿易によって拡大してきた。

 1971年の中国の国連復帰以降,72年の日中,79年の中米国交正常化などが象徴するように,中国の東西貿易への積極的参加,西側の対中販売熱によって特徴づけられる。中国は〈四人組〉打倒後ようやく1977年に新指導体制が確立したが,同時に野心的な経済発展計画を策定,西側からの資本,商品,技術の輸入を積極化した。その後直ちにこの計画が野心的にすぎるとして修正されたが,東西貿易の主役の一人としての立場は確立した。

 他方,ソ連は1979年末のアフガニスタン侵攻以降,米ソ緊張激化に伴い,アメリカの対ソ禁輸政策強化の圧迫を受けた。日本は,1978年の日中平和友好条約調印後,北方領土問題もからんで関係悪化のまま対ソ貿易は停滞している。しかし西ヨーロッパでは,ソ連産天然ガス輸入と機械輸出によって対ソ連・東欧貿易の重要性は増している。このためアメリカの,とくにレーガンの政策(経済制裁,禁輸強化)には同調できないでいる。アメリカ国内には,対ソ小麦輸出やその他経済取引拡大要求グループがあるが,軍事力でソ連が優位に立ちつつあるとみる人々が対ソ貿易制限を主張し,これが政府の政策に反映している。80年代初めには米ソ緊張激化と西側不況によって,東西貿易も停滞を余儀なくされている。他方,中国と西側工業国との貿易は拡大を続けている。アメリカは穀物および機械類を輸出,ヨーロッパ諸国も機械類を輸出し,軽工業品を輸入している。欧米は日本のように石油,石炭を輸入しないため,欧米の出超傾向にある。

1958年以降政府間協定に基づく日ソ貿易が開始されたが,70年代後半まで,この2国間貿易は,おのおのの総貿易のうち2~3%を占めてきた。81年においても往復53億ドルで,日本の総貿易高の3.5%を占めるにすぎない。日本は木材,金属鉱などを輸入し,鉄鋼,機械類などを輸出してきた。中国にとって,日本は地理的にみて最大の貿易相手国となりやすいが,ソ連の場合,ヨーロッパ・ロシアと西ヨーロッパの近接性のためヨーロッパがややぬきんでている。

 ソ連の極東部,東シベリアは,日本に近いので交易機会は多いはずである。このためソ連側は1964年に全ソ輸出入事務所を創設し,〈沿岸貿易〉(極東部ソ連と日本海沿岸日本諸都市間の貿易)を開始し,多様な消費財の貿易を行ってきた。ただし規模は小さく,1966年に往復1000万ドル,70年代末でも約6000万ドル程度である(1979年の日ソ貿易は往復約44億ドル)。

 日本とソ連の間には,日本が天然資源を輸入し機械や消費財を輸出できるという意味で補完性がある。1960年代後半から70年代半ばまでは,この意味で各種経済協力,貿易プロジェクトが生まれた。極東森林資源開発,ウランゲル港建設,南ヤクート原料炭開発プロジェクトなどはその例である。このほかに日本にとって関心の強いヤクート天然ガス開発,サハリン大陸棚石油ガス探鉱プロジェクトがある。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「東西貿易」の意味・わかりやすい解説

東西貿易
とうざいぼうえき
East-West trade

経済体制を異にする社会主義諸国(東側諸国)と資本主義諸国(西側諸国)との間の貿易取引のこと。かつて東西貿易は、より広範な政治・経済関係をさすいわゆる「東西対立」(これは経済的先進国と開発途上国の間の諸関係を意味する「南北問題」と対置される概念である)のなかにあって、両陣営を直接結び付ける紐帯(ちゅうたい)としての役割を演じてきた。

 周知のごとく、第二次世界大戦直後は東西冷戦が激化し、これを背景に西側諸国では1948年以降アメリカの大規模な援助(マーシャル・プラン)のもとでヨーロッパの経済復興計画が推進され、1948年にはヨーロッパ経済協力機構(OEEC)が発足、これと対抗的に旧ソ連、アルバニア、ブルガリア、旧チェコスロバキア、ハンガリー、ポーランド、ルーマニアの諸国は1949年に経済相互援助会議(COMECON(コメコン))を設立するなど、それぞれの陣営内部での結束強化が図られた。そのうえ、同じ1949年にはアメリカのイニシアティブによって対共産圏輸出統制政策委員会(COCOM(ココム))が結成され、さらに朝鮮戦争を契機として、1952年に対中国輸出統制委員会(CHINCOM(チンコム))が特設されて対中国禁輸政策が強化されるなど、東西貿易は遅々として進まなかった。

 しかしながら、スターリンの死後デタント(東西緊張の緩和)が進展するなかで、東西貿易のシェアは1953、1954年ごろを底に拡大に転じ、紆余(うよ)曲折を経ながらも漸増する傾向を示していた(その分各圏内貿易のシェアは低下したわけである)。東西貿易での商品構成は1950年代から1980年代に至るまで基本的には変化していない。すなわち、東側諸国は西側諸国に主として原料や燃料、それに加工度の低い軽工業品を輸出し、逆に西側諸国から高級な機械類や重化学工業製品を輸入するという(その意味では補完的な)パターンが継続していたのである。また、当時、東側諸国の対西側貿易収支は、ソ連など一部に例外はあるものの、1950年代を除き1960年代以降は終始赤字であり、それは西側諸国からの借款の増大(輸入へのクレジット供与を含む)と相まって、一部東側諸国(たとえばポーランド)を深刻な累積債務危機に陥れていたほどである。

 本来、東西貿易は、中央集権的計画経済体制をとる諸国と自由な市場経済体制下にある諸国というように、根本的に経済体制を異にする国家間の貿易であったから、一方における貿易の国家による独占と他方における企業間の激しい競争がもたらすバーゲニング・パワー(交渉能力)上の相違や、政治的恣意(しい)性の介入、東側経済の非効率性と西側経済の不安定性がそれぞれ相手側に与えるいらだちの集積といった各種要因に左右されることが多く、リスキーなものであり、不安定なものであった。事実、1979年のソ連によるアフガニスタン侵入への制裁措置としてアメリカは対ソ小麦輸出を禁止したし、同じくアメリカは1980年代に入って目覚ましい発展を示したエレクトロニクス、コンピュータ、新素材などの技術がソ連に流れ、そこでの軍事力強化につながることを懸念して、COCOMの規制を強めようとした。また、前述したように、東側諸国が構造的に外貨不足に陥っていたことも東西貿易を制約する要因となっていた。

 しかし、1989年の「ベルリンの壁」崩壊や1991年のソビエト連邦の解体を契機として冷戦体制が終焉(しゅうえん)し、東側諸国がなだれをうって市場経済化を指向するとともに、EU(ヨーロッパ連合)が東方へその加盟国を拡大するに至った。そのため、今日では「東西貿易」は完全に死語になったといえる。目下の問題は、かつての東側諸国を包含する市場経済圏が拡大し、そのなかで貿易をめぐっても各国間の競争が激化しているということであろう。

[村上 敦]

『小川和男著『東西貿易の知識』(1971・日本経済新聞社)』『小川和男著『共産圏市場へのアプローチ』(1975・日本経済新聞社)』『辻忠夫著『世界市場と長期波動』(1995・御茶の水書房)』『小山洋司編『東欧経済』(1999・世界思想社)』『中江剛毅著『東西貿易――崩壊する対共産圏輸出規制』(教育社新書)』

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世界大百科事典(旧版)内の東西貿易の言及

【貿易】より

ウルグアイ・ラウンド世界貿易機関
【社会主義国の貿易】
 表3に表れた社会主義国の世界貿易に占めるシェアは小さい。1960年から80年をみると,中央計画経済圏と市場経済圏との貿易,いわゆる東西貿易は輸出と輸入それぞれで3~4%で微増,中央計画経済圏内の貿易に至っては1960年の8.5%から80年には4.3%と半減した。これら諸国の経済規模からしてもかなり小さく,国際分業化が遅れていたことを示している。…

【レバント貿易】より

…シリア,レバノンなどを中心とし,ギリシア,トルコ,あるいはエジプトを含める。つまりレバント貿易とは東西貿易,西ヨーロッパから見た東方貿易を指す。地中海の東と西が一つの世界に結合されていたローマ帝国の時代についてはこの概念は存在しない。…

※「東西貿易」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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