東間切(読み)しぎやまぎり

日本歴史地名大系 「東間切」の解説

東間切
しぎやまぎり

徳之島東部に位置する。徳之島の三間切の一つで、シギャ、ヒギャという。琉球王国の地方行政単位で、近世にも継承され、井之川いのー亀津かむいじの二区分があった。西は西目にしめ間切(現天城町など)、南は面縄うんのー間切(現伊仙町など)と接する。現在の徳之島町のほぼ全域(北端部と南西端を除く)と、伊仙いせん町の北西部にあたる。万暦二八年(一六〇〇)一月二四日の琉球辞令書(深見家文書)に「とくのにしめまき里」とみえ、「とく」つまり徳之島に西目間切が置かれているので、東間切も存在していたことが想定され、琉球王国の支配下にあって大屋子・与人・掟などの役職が任じられていたと考えられる。

近世には徳之島代官(古くは奉行)の支配を受け、万治二年(一六五九)に検地が行われている。正保琉球国絵図に「東間切」とみえ、「ヒカマキリ」の訓が付され、間切高二千五一石余とあり、「かめつ村」「花徳村」が記される。


東間切
ひぎやまぎり

大島の南西部に位置する大島七間切の一つ。「ひかまきり」ともいう。琉球王国の地方行政単位で、近世にも継承され、東方・渡連どれん方の二方に区分されていた。大島の南西端と大島海峡(瀬戸内)を挟んで所在する加計呂麻かけろま島の東部に及ぶ範囲で、現在の瀬戸内町の東部にあたる。

源平合戦に敗れた平家落人が喜界きかい島から大島に渡海し、平資盛は諸鈍しゆうどんを拠点に東間切と屋喜内やきうち間切(現宇検村など)を押えたと伝える(安永二年「平家没落由来記」奄美大島史)。嘉靖一九年(一五四〇)と推定される琉球辞令書(笠利氏家譜)に「せんとうちひかまきり」とみえ、瀬戸内東間切の「志よ里の大やこ」(首里大屋子)笠利かさん(現笠利町)の「ひかせと」が任じられている。隆慶五年(一五七一)には「せんとうちひかまきり」の「めさし」(目差職・目指職)名柄ながら(現宇検村)の掟職を務めた「たらつゐはん」が任じられている(同年三月一一日「琉球辞令書」名柄文書)


東間切
ひがまぎり

喜界島の北東部南側に置かれた行政区分。設置時期は不明だが、琉球王国時代にさかのぼるとみられる。正保琉球国絵図に「東間切」とみえ、ヒカの訓が付され、間切高一千九八六石余。寛文八年(一六六八)の琉球国郷帳では田方一千九一二石余・畠方六〇石余、桑役一二石余。元禄五年(一六九二)喜界島与人を一人増やして六人とするにあたり、東与人の塩道しゆみち村・永嶺ながんみ村・早町そうまち村・白水しらみど村・嘉鉄村(嘉鈍村)阿伝あでいん村の六ヵ村で、一千七五〇石余と定めている(「喜界島帳留」列朝制度)


東間切
あがりまぎり

与論島に置かれた行政区画の一つ。大水うぷみじ間切と同じく近世前期より施行されていたかどうか明らかではない。享保一二年(一七二七)のいわゆる享保内検の結果を示す天保(一八三〇―四四)頃の万帳(滝家文書)によれば、当間切は茶花ちやはな村・中間なーま村・麦屋むぎや村になっており、家内数二六七・人数一千四四三人。島の南部北部、および中央部の北西側という範囲で、大水間切を分断するかたちになっている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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