松倉城跡(読み)まつくらじようあと

日本歴史地名大系 「松倉城跡」の解説

松倉城跡
まつくらじようあと

[現在地名]魚津市鹿熊

かど川東岸の字城山しろやま(標高四三〇メートル、比高三六〇メートル)に築かれた山城。県指定史跡で、鹿熊かくま城・金山かなやま城ともいう。守山もりやま(現高岡市)増山ますやま(現砺波市)と並び、越中三大山城の一つとされる。魚津城とともに室町―戦国期の新川にいかわ守護代椎名氏の居城として知られるが、椎名氏は鎌倉前期の承久の乱後に新補地頭として当地に入部したとみられる。松倉城が史料上に現れるのが南北朝期であることから、遅くとも鎌倉末期には築造されたものであろう。「太平記」巻二〇によると、建武五年(一三三八)七月三日に越後国府を発した南朝方の越後勢を防ぐため、越中守護普門(井上)俊清が国境に布陣したが、大半が討たれて「松倉城」へ引籠っている。このことから、松倉城がすでに南北朝初期より守護の拠る城郭として使われており、当地の椎名氏はこれより普門(井上)氏や桃井氏に属し、その軍事行動に協力したとみられる。

康永三年(一三四四)井上俊清が守護を罷免され幕府に敵対すると、能登吉見勢や桃井勢が討伐に差向けられ、貞和二年(一三四六)七月には井上方の「松倉与水尾南山要害」などで戦いが行われた(同年閏九月日「得田素章代章名軍忠状」遺編類纂所収得田文書)。この結果、俊清は降伏、松倉城も陥落したとみられる。しかし俊清は翌三年再び幕府に敵対したため、桃井直常や能登の吉見氏頼軍勢が討伐に差向けられた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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