日本歴史地名大系 「松原宿」の解説 松原宿まつばらしゆく 大阪府:東大阪市旧河内市地区松原村松原宿明暦元年(一六五五)暗(くらがり)峠越奈良街道に設けられた宿駅。奈良街道の起点は二軒茶屋(にけんぢやや)(現東成区)説(枚岡市史)、大坂八軒家(はちけんや)(現東区)説(枚方市史)など諸説あるが、道標には「暗越奈良街道 距高麗橋元標壱里」とある。松原宿に隣接する水走(みずはい)村は小村のため人馬役が負担であったので、寛文一〇年(一六七〇)一二月より松原村・水走村に幕府領の額田(ぬかた)村・豊浦(とようら)村を加え、四ヵ村で人馬役を勤めることになった(大阪府全志)。額田家文書によると、のち交通量の増加や物価騰貴にもかかわらず正徳年間(一七一一―一六)に定められた運賃が改訂されないため、天明三年(一七八三)から河内郡吉田(よした)村、若江郡菱江(ひしえ)村・御厨(みくりや)村・岩田(いわた)村・高井田(たかいだ)村が駅所加村と定められ、御用人馬と諸入用の四六パーセントを負担することになった。 松原宿まつばらしゆく 長崎県:大村市松原村松原宿[現在地名]大村市松原本町・松原江戸時代、長崎路に置かれた宿駅。二里南の大村宿、一里半北の千綿(ちわた)宿(現東彼杵町)、同じく二里余の彼杵(そのき)宿(現同上)まで継立てた。宿場の北の無量(むりよう)寺近くに一里塚が置かれ、これより宿外れのよし川(松原川)まで五町五二間であった。寛文元年(一六六一)「松原ヲ以テ馬継所ト為ス」と定められた(九葉実録)。問屋は万治二年(一六五九)に駅馬を置いて大村城下と彼杵宿の荷を継立てたが、文政年間(一八一八―三〇)経費節約を理由に廃された。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by