コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

林八右衛門 はやし はちえもん

3件 の用語解説(林八右衛門の意味・用語解説を検索)

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

林八右衛門 はやし-はちえもん

1767-1830 江戸時代後期の農民。
明和4年2月2日生まれ。上野(こうずけ)前橋藩領東善養寺村の名主。文政4年藩の増税に反対し,減租の願書を提出する一方,江戸に越訴(おっそ)をしようとした農民たちをとめるが,首謀者とみなされ永牢の処分をうけた。牢内で「勧農教訓録」をかき,文政13年8月5日獄死。64歳。名は制備。
【格言など】六十路(むそぢ)ふるやぶれ衣をぬぎすてて本来空へ帰る楽しさ(辞世)

出典|講談社
デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて | 情報 凡例

朝日日本歴史人物事典の解説

林八右衛門

没年:天保1.8.5(1830.9.21)
生年:明和4.2.2(1767.3.1)
百姓一揆の指導者とされ牢死した村役人。上野国(群馬県)那波郡川越藩前橋分領東善養寺村百姓庄七の長男。5歳のとき父が病死,母の再婚先で養われる。9歳のとき祝昌寺光円につき手習いを始め,次いで禅養寺に入り恵陳を師とする。15歳で寺を出て本家林七右衛門家に寄居,18歳で本家養女菊と結婚,分家する。25歳のとき伊勢参宮し,帰村後名主となる。40歳代のころ借金,火事などで家を潰すが,やがて立て直し,53歳で再び名主となり,藩の勧農野廻り役を命じられた。文政4(1821)年,藩の増徴目的の租法変更に対し難渋願書を提出。同年11月江戸藩邸への門訴に出立した百姓の引き戻しを命じられ,中止の説得に努めた。一揆を中止させたが各村の年貢願書の案文を指導したため,翌年入牢,一揆発頭人に当たるとされ永牢の判決を受けた。牢内で『勧農教訓録』3巻を書き上げる。辞世「六十路ふるやぶれ衣をぬぎすてて本来空へ帰る楽しさ」<参考文献>深谷克己『八右衛門・兵助・伴助』

(深谷克己)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
朝日日本歴史人物事典について | 情報

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

林八右衛門
はやしはちえもん
(1767―1830)

江戸時代の名主。上野(こうずけ)国(群馬県)那波(なわ)郡前橋藩領東善養寺(ひがしぜんようじ)村百姓の子として生まれる。父の死、母の再婚で寺に預けられ手習いをする。15歳のとき寺を去り本家に寄居、その養女と結婚して分家。25歳で同村名主となるが、借財により家屋を失い江戸の旗本屋敷に奉公する。また復興して名主となる。藩政の改革にあたり勧農野廻(のまわ)り役を命じられ、信濃(しなの)国(長野県)で引越(ひっこし)百姓(藩管理のもとに開発・耕作を行う)を探す。1821年(文政4)増徴策に対し難渋願書を提出、小前(こまえ)百姓らの一揆(いっき)を中止させるべく説得に尽力したが、発頭人とされて永牢(えいろう)刑の処分を受け、牢内で『勧農教訓録』3巻を書き、30年(天保1)牢死。[深谷克己]
『深谷克己著『八右衛門・兵助・伴助』(1978・朝日新聞社)』

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
日本大百科全書(ニッポニカ)について | 情報 凡例

林八右衛門の関連キーワードマイソール戦争天童藩民衆を導く自由の女神川崎定孝古都アユタヤ曲亭馬琴浮世草子桂川甫筑小西篤好中川忠英

今日のキーワード

百条委員会

地方自治体が議決により設置する特別委員会の一つ。名称は「地方自治法第100条」に基づく。百条委員会は、地方公共団体の事務に関する調査を行い、関係者への聞き取りや記録の提出を請求、拒否した者には罰則が科...

続きを読む

コトバンク for iPhone