林八右衛門(読み)はやし・はちえもん

朝日日本歴史人物事典 「林八右衛門」の解説

林八右衛門

没年:天保1.8.5(1830.9.21)
生年:明和4.2.2(1767.3.1)
百姓一揆の指導者とされ牢死した村役人。上野国(群馬県)那波郡川越藩前橋分領東善養寺村百姓庄七の長男。5歳のとき父が病死,母の再婚先で養われる。9歳のとき祝昌寺光円につき手習いを始め,次いで禅養寺に入り恵陳を師とする。15歳で寺を出て本家林七右衛門家に寄居,18歳で本家養女菊と結婚,分家する。25歳のとき伊勢参宮し,帰村後名主となる。40歳代のころ借金,火事などで家を潰すが,やがて立て直し,53歳で再び名主となり,藩の勧農野廻り役を命じられた。文政4(1821)年,藩の増徴目的の租法変更に対し難渋願書を提出。同年11月江戸藩邸への門訴に出立した百姓の引き戻しを命じられ,中止の説得に努めた。一揆を中止させたが各村の年貢願書の案文を指導したため,翌年入牢,一揆発頭人に当たるとされ永牢の判決を受けた。牢内で『勧農教訓録』3巻を書き上げる。辞世「六十路ふるやぶれ衣をぬぎすてて本来空へ帰る楽しさ」<参考文献>深谷克己八右衛門・兵助・伴助』

(深谷克己)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「林八右衛門」の意味・わかりやすい解説

林八右衛門
はやしはちえもん
(1767―1830)

江戸時代の名主。上野(こうずけ)国(群馬県)那波(なわ)郡前橋藩領東善養寺(ひがしぜんようじ)村百姓の子として生まれる。父の死、母の再婚で寺に預けられ手習いをする。15歳のとき寺を去り本家に寄居、その養女と結婚して分家。25歳で同村名主となるが、借財により家屋を失い江戸の旗本屋敷に奉公する。また復興して名主となる。藩政の改革にあたり勧農野廻(のまわ)り役を命じられ、信濃(しなの)国(長野県)で引越(ひっこし)百姓(藩管理のもとに開発・耕作を行う)を探す。1821年(文政4)増徴策に対し難渋願書を提出、小前(こまえ)百姓らの一揆(いっき)を中止させるべく説得に尽力したが、発頭人とされて永牢(えいろう)刑の処分を受け、牢内で『勧農教訓録』3巻を書き、30年(天保1)牢死。

[深谷克己]

『深谷克己著『八右衛門・兵助・伴助』(1978・朝日新聞社)』

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「林八右衛門」の解説

林八右衛門 はやし-はちえもん

1767-1830 江戸時代後期の農民
明和4年2月2日生まれ。上野(こうずけ)前橋藩領東善養寺村の名主。文政4年藩の増税に反対し,減租の願書を提出する一方,江戸に越訴(おっそ)をしようとした農民たちをとめるが,首謀者とみなされ永牢の処分をうけた。牢内で「勧農教訓録」をかき,文政13年8月5日獄死。64歳。名は制備。
【格言など】六十路(むそぢ)ふるやぶれ衣をぬぎすてて本来空へ帰る楽しさ(辞世)

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