朝日日本歴史人物事典 「林八右衛門」の解説
林八右衛門
生年:明和4.2.2(1767.3.1)
百姓一揆の指導者とされ牢死した村役人。上野国(群馬県)那波郡川越藩前橋分領東善養寺村百姓庄七の長男。5歳のとき父が病死,母の再婚先で養われる。9歳のとき祝昌寺光円につき手習いを始め,次いで禅養寺に入り恵陳を師とする。15歳で寺を出て本家林七右衛門家に寄居,18歳で本家養女菊と結婚,分家する。25歳のとき伊勢参宮し,帰村後名主となる。40歳代のころ借金,火事などで家を潰すが,やがて立て直し,53歳で再び名主となり,藩の勧農野廻り役を命じられた。文政4(1821)年,藩の増徴目的の租法変更に対し難渋願書を提出。同年11月江戸藩邸への門訴に出立した百姓の引き戻しを命じられ,中止の説得に努めた。一揆を中止させたが各村の年貢願書の案文を指導したため,翌年入牢,一揆発頭人に当たるとされ永牢の判決を受けた。牢内で『勧農教訓録』3巻を書き上げる。辞世「六十路ふるやぶれ衣をぬぎすてて本来空へ帰る楽しさ」<参考文献>深谷克己『八右衛門・兵助・伴助』
(深谷克己)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報