日本大百科全書(ニッポニカ) 「柳剛流」の意味・わかりやすい解説
柳剛流
りゅうごうりゅう
幕末に台頭した剣術の一流派。流祖は武州北葛飾(きたかつしか)郡惣新田(そうしんでん)(埼玉県幸手(さって)市)の人、岡田総右衛門奇良(そううえもんきりょう)(1765―1826)。奇良は、はじめ心形刀(しんぎょうとう)流を伊庭軍兵衛直保(いばぐんべえなおやす)の高弟大河原右膳(おおかわらうぜん)有曲に学んで免許を得、のち関東各地を遍歴して三和無敵(さんわむてき)流や当(とう)流などの諸流を修めた。脚を撃つことに妙を得、相手の臑(すね)を斬(き)ることをもっとも得意とし、稽古(けいこ)には防具に竹製の臑当を着用することを始めた。こうした奇抜な実戦的剣法に対し、千葉周作(しゅうさく)ら当時の道場主たちはその防御対策に苦心したという。その後、奇良は一橋(ひとつばし)家の師範となり、また神田お玉が池に道場を開いて多く門弟を養ったが、剣のほかに薙刀(なぎなた)・居合・棒・杖(じょう)・柔術などの諸要素を取り入れた、幅の広い混合武術の形態をとったために、師家の統制が緩やかで、免許を受けた門人らは関東各地に分散し、社中を結成して、林派・今井派・杉田派・中山派・古川派・岡安(おかやす)派・飯箸(いいばし)派・山内派・横山派・深井派・行川(なめかわ)派など多く支流分派を形成した。
2代目の岡田十内叙吉(じゅうないのぶよし)は足立(あだち)郡下戸田(しもとだ)村(埼玉県戸田市)の医師静安(せいあん)の子として生まれ、江戸に出て奇良の門に入り、ついに蘊奥(うんのう)を極めてその養嗣(ようし)となった人で、本郷森川町に道場を移して、藤堂(とうどう)藩や福山藩の師範に召し出され、門人千数百に達したという。また、陸前の一条作馬之介(いちじょうさまのすけ)が角田(かくた)の石川氏に仕え、仙台方面にこの流派を広めた。幕末、講武所教授方から新徴組支配となった松平上総介忠敏(かずさのすけただとし)や紀州藩の橘内蔵介(たちばなくらのすけ)らも柳剛流の剣士として知られた。
[渡邉一郎]