改訂新版 世界大百科事典 「紀州藩」の意味・わかりやすい解説
紀州藩 (きしゅうはん)
紀伊国(和歌山県)名草郡和歌山に藩庁を置いた親藩。紀伊藩ともいい,1868年(明治1)からは公式に和歌山藩と称した。親藩となる前は1600年(慶長5)に浅野幸長(よしなが)が37万6500石で入国し,19年(元和5)弟の浅野長晟(ながあきら)が安芸国に転封するまで浅野氏の支配下にあった。同年に徳川家康の子で,駿府城で50万石を領有していた徳川頼宣が伊勢・大和の一部を合わせ55万5000石で入国して以来,三家として重きをなした。頼宣は数え年18歳で入国したが,家康はすでになく,秀忠がその遺命を実行した。頼宣には安藤直次・水野重央(しげなか)らの付家老がつけられ,それぞれ田辺・新宮に配置され,補佐の任にあたった。頼宣は武道を奨励し,有力な諸国の浪人を集めて軍事力の強化につとめ,在地の有力土豪層を地士に登用し,彼らの不満をしずめた。しかし地士制度も幕末に藩財政が窮乏すると,新興農民で藩に献金して地士となる者もでてきた。頼宣は藩体制確立のために家臣団や農村や町方に対して法度を出している。近世中期になると藩財政が窮乏し,このときに第5代藩主徳川吉宗が登場する。彼はみずからも倹約を実践し,家臣の取締りに横目20人をおいたが,農民や町人に対しては農業経営や商取引をそれぞれの判断にまかせたことが注目される。文武を奨励し,室鳩巣が紀州の学問は諸国の中でもっとも盛んであるといったという。家臣から20分の1の差上金を命じ,農民や町人からも新税や御用金を取り立て,新田を開発し産業をおこした。行政整理も藩主みずから坊主・手代・小役人等80人を整理して範を家臣にしめした。人材の登用も行い,和歌山城の一ノ橋門外に訴訟箱をおいて民衆の意見を聞くなどして,ついに藩財政を確立し,ついに1716年(享保1)33歳で第8代将軍となり,すでに紀州藩主として成した諸政策を生かして幕府の享保改革を断行したのである。吉宗の土木工事に貢献したのは井沢弥惣兵衛で彼は吉宗とともに江戸に出て,紀州流土木工法で諸国で活躍した。明治初年の藩制改革では明治政府に先がけて徴兵制を実施し,近代的軍隊を編成し,政府からも注目されるなど,先進的な役割を果たしたのが紀州藩の特色といえる。
執筆者:安藤 精一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報