柳川城跡(読み)やながわじようあと

日本歴史地名大系 「柳川城跡」の解説

柳川城跡
やながわじようあと

[現在地名]柳川市本城町

現柳川市中央部にある。江戸時代の柳川城下中央よりやや南西に位置する平城。簗河城・柳河城とも記す。

〔築城と戦国期の城主〕

 柳川城は戦国期に蒲池(下蒲池)氏によって築かれたとされているが、その時期および築城者については文亀年間(一五〇一―〇四)に蒲池治久によるとする説(南筑明覧)、天文年間(一五三二―五五)に蒲池鑑盛(宗雪)によるとする説など(蒲池物語)定説をみていない。「蒲池物語」によれば、蒲池鑑盛が狭隘な蒲池かまち城から柳川城へと拠点を移したとされ、これ以降蒲池氏居城としてみえる。鑑盛は天正六年(一五七八)日向耳川の合戦で大友氏に属して討死した(「勝部兵右衛門聞書」旧記雑録/鹿児島県史料 旧記雑録後編一)。後を継いだ鎮並は龍造寺氏につくが、同八年に反旗を翻し、二月一三日から約三〇〇日間龍造寺軍に柳川城を包囲されたが、持ちこたえたとされる(貞享二年「田尻輝種田尻氏由緒書出」田尻家文書)。しかし天正九年に鎮並が龍造寺氏に肥前佐賀で殺害され、下蒲池氏が滅ぶと、柳川城には鍋島信昌・龍造寺家晴が入った(田尻家譜)。同一二年に入ると大友方の戸次道雪・高橋紹運が筑後へ出陣し、柳川城を攻めようとしたが、「二方は海により、二方ハ沼堀縦横にして、要害堅固の地なり」であるとして、柳川城を攻略できないまま撤退した(「薦野家譜」など)

〔立花氏の入城〕

 天正一五年六月の豊臣秀吉による九州仕置で戸次道雪の養子である立花統虎(のち親成・宗茂)山門やまと三潴みづま下妻しもつま三池みいけの下筑後四郡を与えられた。ただし三池郡実弟であった高橋統増(のち立花直次)へ、三潴郡のうち一五〇町は三池鎮実へ渡すこととされた(同月二五日「豊臣秀吉朱印状」立花家文書)。統虎は柳川を城地として入部(寛政重修諸家譜)、夫人千代とともに二の丸に入り、鷹尾たかお(現大和町)など周辺の支城に家臣を配した(「柳河年表」県史資料五など)。文禄四年(一五九五)の知行方目録によれば宗茂の知行地は葭方も含めて山門郡四万五千二二石余・下妻郡一万七千八四四石余・三潴郡五万八千六一六石余・三池郡一万七〇〇石の計一三万二千一八四石で、うち四万一千二九五石が出米加増分とされていた。同五年頃宗茂は柳川城の改修に着手したようで、同年五月一七日付の立花宗茂書状(堤伝氏収集文書)には小野鎮幸に「柳川城普請肝煎申付」との肩書が付けられ、また立斎様御自筆御書之写(立花家文書)には出兵先の朝鮮から国元へ天守・広間・書院・所々矢倉などについて指示を送ったとある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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