柿ヶ原村
かきがはらむら
加越山地上にあり、北陸街道の金津宿と細呂木宿の中間地点、道よりやや東方に位置する。室町時代中期以前のものと思われる河口庄御検注郷々仏神田注文(神宮寺文書)の河口庄山荒居の田地に「柿原毘沙門田 三反」「柿原九日田 一反」とみえ、天正四年(一五七六)の高田専修寺宛柴田勝家書状(法雲寺文書)の越前の高田派専修寺門家一二ヵ村のなかにも「柿原」が記されている。
慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図には「柿ケ原 坪江下郷内」として高四五五三・八六三石が記され、江戸時代以前には、指中村・柿原西方寺村・柿ヶ原十楽村などをも含めて柿原と称していた。
柿ヶ原村
かきがはらむら
[現在地名]池田町柿ヶ原
集落は清水谷川が本流の足羽川に注ぐ西側の山裾に位置し、持越村の南西にある。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図に「箱ケ原村」として高一八・八七石とある。正保郷帳で柿ヶ原村となり、田方一三石余・畠方五石余。享保六年(一七二一)の池田郷中村々明細帳の写(片山家蔵)によれば、反別一町二反余(うち田八反余)、家数八(本百姓・水呑各四)、人数五七(男三二・女二五)、牛二頭。小物成には夫米・山手米・漆役・三杷木役・糠代・藁代があった。
柿ヶ原村
かきがはらむら
[現在地名]作東町柿ヶ原
田淵村の南に位置し、南西は万善村。正保郷帳に柿原村とみえ、田九三石余・畑六六石。元禄一〇年(一六九七)の美作国郡村高辻帳では改出高三二石余・開高二一石余、村位は下。津山藩森氏断絶後の領主の変遷は蓮花寺村と同様。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
Sponserd by 