柿崎村(読み)かきざきむら

日本歴史地名大系 「柿崎村」の解説

柿崎村
かきざきむら

[現在地名]柿崎町柿崎

北国街道に沿った日本海沿岸の村で、柿崎川河口右岸に発達した宿場町。東は法音寺ほうおんじ村と接する。正中二年(一三二五)二月八日の大見資家譲状(大見安田氏文書)に「佐味庄柿崎の宿うわミセヲカ田」などとみえ、資家より子の資宗に譲られている。永禄一二年(一五六九)越相講和のため越後入りした北条氏康の使者天用院らは、五月二三日に柏崎を発ち、翌二四日に当地へ着く予定であると報告されている(五月一八日「進藤家清書状」伊佐早謙氏所蔵文書)。天正七年(一五七九)四月、上杉景勝は「柿崎町人等」に対し、浜筋を往復する伝馬・宿送などは印判を所持する者にのみ応じるよう命じている(「上杉景勝朱印状」相沢清右衛門氏所蔵文書)


柿崎村
かきさきむら

[現在地名]下田市柿崎・たけはま

下田町の東、南に突き出した須崎すざき半島付根に位置する。枝郷として北に外浦そとうらがある。北条氏所領役帳に玉縄衆の朝比奈孫太郎の役高として二七貫文「須崎・柿崎」とみえる。天正一四年(一五八六)一〇月一八日の北条家朱印状(三嶋大社文書)によれば、北条氏は三嶋社(三嶋大社)祭銭を未進している柿崎など一〇ヵ所に対して、三嶋神主らが祭銭を徴収することを認めている。江戸時代は幕府領が長く、うち下田番所支配が元和二年(一六一六)より元禄四年(一六九一)まで、下田奉行所支配が正徳二年(一七一二)より享保五年(一七二〇)までと嘉永七年(一八五四)より安政六年(一八五九)まで。


柿崎村
かきさきむら

[現在地名]安城市柿碕かきさき

西の尾崎おざき村と同じく、矢作川沿岸の低地中に突出した洪積台地の「さき」にある。北は橋目はしめ村、東は小針こばり(現岡崎市)に隣する。式内社和志取わしとり神社(岡崎市の→和志取神社をこの地にあてる説があり、村名の由来は、社前の集落を神前かみさき村とよび、これが柿崎村に変わったという。寛政一三年(一六三六)の石高三八三石七斗余。台地上の村として水利に乏しく、溜池によって水の確保に努めたが、旱魃による不作は免れなかった。ほとんど陸稲で、粟・麦・黍・甘藷が主食。高い土地への引水は、明治めいじ用水の開削をまたねばならなかった。安永三年(一七七四)本田四石余に対して本畑四〇石余、年貢率二・三。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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