栃木村
とちぎむら
[現在地名]弥栄村栃木
小坂村の西に位置し、北・西は鍋石村・長見村(現浜田市)、南は稲代村。中世は永安別符に北接していた。小字に山賀・高坂谷・金岡・六歩谷などがある。嘉暦元年(一三二六)一二月一〇日の石見永安別符以下地頭職分文(吉川家文書)に記された永安別符の四至
示に「北栃木堺他領」とみえ、また同別符のうち「一原分七丁半」を二分する境界線のうちに「栃木サコノ西尾ヲ下リニ堺」とある。
栃木村
とちのきむら
[現在地名]水沢市佐倉河 満倉
上葉場村の南、胆沢扇状地の北東部に位置する。久寿元年(一一五四)三月八日の中尊寺経蔵別当蓮光譲状(中尊寺文書)によると、伊沢郡栃木郷に中尊寺金色堂供養法田二町があった。寛永六年(一六二九)一一月一一日、伊達家臣白石刑部太輔宗貞は一千貫文の知行を宛行われたが、そのなかに塩竈村の二〇貫余とともに「水沢之内とちの木」の六六貫四四九文が含まれている(「伊達政宗領知黒印状」伊達家文書)。
栃木村
とちのきむら
[現在地名]門前町栃木
深田村の南東、八ヶ川支流栃木川中流域の峡谷に立地。桑屋村とも称し、西の栃木と東の桑屋(桑谷田)両村が合して栃木村といったと伝承する。垣内に南山・土麻佐・田子がある。桑屋村は中世櫛比庄に成立した桑屋村の村名を継承すると考えられる。正長二年(一四二九)正月一一日の総持寺寺領目録(総持寺文書)に、諸岡村の内として「四百五十文、橡ノ木憩場、戒音」とみえる。永正六年(一五〇九)一〇月一九日の畠山義元寺領安堵状(同文書)に「杤木、弐百苅」とみえる。正保郷帳では高二二七石余、田方一〇町九反余・畑方四町二反余。承応三年(一六五四)の村御印の高二二九石余、免五ツ八歩(能登奥両郡収納帳)。
栃木村
とちのきむら
[現在地名]安芸市栃ノ木
安芸平野北端に位置し、安芸川東岸の東地と西岸の西地に分れる。尾川川が村の中央部で安芸川に合流し、尾川川の上流尾川村を経て香美郡大栃村(現物部村)に通じ、安芸川をさかのぼって畑山村に、下流は井ノ口村を経て安喜浜村に至る道が通る。奥地山間集落との物資交易の中継地である。延慶元年(一三〇八)二月付の城普請定書(安芸文書)に、安芸川沿いの出役を割当てられた村々七名の一つとして「とちの木名」が記される。
栃木村
とちのきむら
[現在地名]西区櫨谷町栃木・春日台一丁目・竹の台二―五丁目・樫野台一―三丁目・同五―六丁目・美賀多台三丁目
櫨谷川中流域に位置し、西は菅野村。慶長国絵図に「とちノき村」とみえる。正保郷帳によると田方一九〇石余・畑方五二石余、小松山あり。明石藩領中里組に所属。「明石記」によると東西二町・南北五〇間。
栃木村
とちのきむら
[現在地名]耶馬渓町栃木
津民川が山国川に合流する地点にあり、東は小友田村、北は中畑村。もと津民村の内で、幕末に独立したと考えられる。文久三年(一八六三)の「豊前志」に村名がみえる。旧高旧領取調帳では高一七一石余。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
Sponserd by 