栗生沢村(読み)くりゆうざわむら

日本歴史地名大系 「栗生沢村」の解説

栗生沢村
くりゆうざわむら

[現在地名]江刺市梁川やながわ

菅生すごう村の北東に位置し、北上高地西縁の山地や丘陵に立地。北東に笠根かさね(五二〇・九メートル)、南東に白山堂はくさんどう(四七五・四メートル)がそびえ、南部谷間を沢水を集めて広瀬ひろせ川が西流し、流域に狭長な河岸平地が開けている。戦国時代には栗生沢城に葛西氏に属した栗生沢内記が拠った(仙台領古城書上)。栗生沢城は別名鶴野つるの城とよばれ、寺屋敷てらやしきの比高約三〇メートルの丘陵の尾根の上に立地し、本丸・二の丸の二郭と堀跡などが残り、周辺には的場まとば馬場跡ばばあと地名も残っている。

寛永一九年(一六四二)の栗生沢村検地帳(県立図書館蔵)によれば田方一四町二反余・代一六貫八七文、畑方四五町八反余・代一一貫一五一文、茶畑三畝余・代七九文。


栗生沢村
くりうざわむら

[現在地名]熱塩加納村山田やまだ

南流する押切おしきり川を挟んで金屋かなや村の対岸東方に位置する。本村集落は湯館ゆだて(五〇〇・八メートル)南西麓を占め、村名は栗の木が多かったことに由来するという。北は熱塩村、南東は宇津野うつの村。かつて集落は南方、押切川左岸沿いの平地に宇津野村の集落とともにあったが、度重なる押切川の洪水により本村集落は北方山麓に移り、一部の住人は宇津野村村民とともに西方に移転、同村集落内に雑居したと伝える(「新編会津風土記」など)。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録には「くり沢」とあり、高二七四石余。


栗生沢村
くりゆうざわむら

[現在地名]田島町栗生沢

田辺たべ村の南西、水無みずなし村の南に位置する阿賀川支流水無川上流東岸の山村。南は男鹿おが岳を境に下野国と接する。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では「小屋」(高二四七石余)のうちに含まれていたとみられる。南山御蔵入領田島組に属する。貞享二年(一六八五)の「長江庄郷村地方風俗帳」に村名がみえ、民家が南北に並び、野が広く、耕地はすべて畑地とある。同三年の当免定(湯田家文書)では高九五石余。延享三年(一七四六)の田島組覚書(田島町史)でも同高、家数二七・人数一四七、馬四。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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