江戸後期の俳人。姓は桜井,名は能充。幼名は次郎作。初号は雪雄,別号は素蕊(信),方円斎,陸々など。金沢の人。刀研師として加賀藩に仕える。希因門の父雪館に就いて幼時より俳諧に遊ぶ。16歳のころ闌更の門に入り,のち師から槐庵の号を得た。致仕後京に出て俳諧に励み,1834年(天保5)ころまでの10余年間,抱儀の招きで江戸に住む。のち京に戻って定住し,風交を広め,貴顕と交わり,51年(嘉永4)に二条家から〈花の下(もと)〉宗匠の称号を贈られた。磊落(らいらく)な気質をもって声望を集め,門弟は多士済々で,幕末俳壇に活躍した蒼山,為山,等栽,および正岡子規の師大原其戎(きじゆう)らがいた。鋭敏な感覚と巧みな表現による佳句がある一方,ただごとや理屈の弊に堕した句も多く,当流月並の俗調はおおいがたい。俳諧作法の簡易化を提唱して式目墨守の俳諧や秘事伝書の類を批判し,《炭俵》調の俗談平話を志向して蕉風の自在,用語の自由を説いた。この思想は,其戎を経て子規に一部継承され,近代写生句へと流れることになる。編著は《梅室家集》《梅室付合集》《梅林茶談》など数編。〈糊の干ぬ行灯ともす寒さかな〉(《梅室家集》)。
執筆者:石川 真弘
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
江戸後期の俳人。桜井氏。加賀金沢の人。名は能充(よしみち)。闌更(らんこう)門馬来(ばらい)に師事。初号は雪雄のち素芯(そしん)、素信。別号に方円斎など。1800年(寛政12)秋に金沢の槐庵(かいあん)を継ぎ、翌春俳諧撰集(はいかいせんしゅう)『さるのめん』を出版。1804年(文化1)に先祖代々の加賀藩研刀師の職を弟子に譲り、1807年に上京。1820年(文政3)から翌々年まで大坂、1823年から12年間江戸に住し、簡易な作法、平易な作風をもって諸国に多くの門人を得、1851年(嘉永4)二条家から花の本宗匠(もとそうしょう)の称号を受けた。京で没。後年、蒼虬(そうきゅう)、鳳朗(ほうろう)とともに天保(てんぽう)三大家の1人とされる。
ふゆの夜や針うしなふておそろしき
[櫻井武次郎]
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