棚倉城跡(読み)たなぐらじようあと

日本歴史地名大系 「棚倉城跡」の解説

棚倉城跡
たなぐらじようあと

[現在地名]棚倉町棚倉

久慈くじ川とその支流に挟まれた標高三七五メートルの台地上に築かれた台城(平地城)かめヶ城・近津ちかつ城・新土城ともいう。

元和八年(一六二二)棚倉藩入部し五万石を領した丹羽長重は、寛永元年(一六二四)幕府から築城の命を受け、近津明神(現馬場都々古別神社)の社地に着目、別当高松家と交渉し隠居中の高松良篤を還俗させて藩家老とし、神領一五〇石を安堵することを条件に、同社を馬場ばばに移し、跡地に翌二年一月から城普請に着手、同四年に完成した。同年城の完成直前に丹羽氏は白河藩に移封となり、代わって磐城平藩から内藤氏が入部(三代・五万石)、以降宝永二年(一七〇五)太田資晴(一代・五万石)、享保一三年(一七二八)松平(越智)武元(一代・五万四千石)、延享三年(一七四六)小笠原長恭(三代・六万石)、文化一四年(一八一七)井上正甫(二代・六万石)、天保七年(一八三六)松平(松井)康爵(四代・七万三千石)、慶応二年(一八六六)から阿部正静(一代・一〇万石)代々の棚倉藩主が居城した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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