百科事典マイペディア 「磐城平藩」の意味・わかりやすい解説
磐城平藩【いわきたいらはん】
→関連項目小名浜|平
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陸奥国磐前郡磐城平に藩庁を置いた譜代中小藩。1602年(慶長7)岩城氏の改易後,奥州太平洋岸(浜通り)南端の押えとして鳥居忠政が10万石で入封し,築城,城下町建設,08年の領内総検地,新田開発の奨励など藩体制確立に努めた。22年(元和8)内藤政長が7万石で入封し,内藤氏は6代124年に及んだ。38年(寛永15)総検地(寅の縄)を実施して確立しつつあった近世村落の状況を掌握し,夏井川上流から小川江を開削するなど農政,沿岸漁業,馬産に力を入れ,小名浜湊を窓口に江戸,大坂などとの取引を盛んにした。しかし当初より財政難で53年(承応2),57年(明暦3)初期藩政改革を断行して地方知行から禄米制へ切り替え,農民収奪を強化したが,家中騒動や農民の抵抗があいついで藩政は動揺し,1738年(元文3)には元文一揆といわれる大抵抗を受けた。47年(延享4)井上正経が6万石,56年(宝暦6)安藤信成が5万石で入封するが,所領は分散され,廃藩置県に至る。藩財政は天明・天保の飢饉もあって困窮し,老中安藤信正が坂下門外の変で失脚し2万石に減封,戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に加盟して新政府軍に抵抗したため,陸奥磐井郡に移されようとしたが,中止された。
執筆者:青木 美智男
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
…1664年(寛文4)上杉氏の削封によって伊達・信夫両郡は幕府領となり,その後,同地方には福島藩,梁川(やながわ)藩,桑折(こおり)藩,下手渡(しもてど)藩,下村藩などの小藩に,桑折,川俣,梁川などの幕府領が加わり複雑な入組支配(いりくみしはい)の変遷が続いた。現福島県南部も同じ傾向で,鳥居氏が山形に移封となった後の磐城平藩には譜代大名内藤氏7万石が入り,以後井上氏,安藤氏と続き,泉藩2万石が1634年(寛永11)に,湯長谷(ゆながや)藩が70年にそれぞれ磐城平藩から分知した。棚倉藩は立花氏が筑後柳河に去った後,丹羽,内藤,太田,松平,小笠原など5万~6万石の大名の転入封が続き,塙領に加えて小名浜5万石弱が1746年(延享3)に幕府領となった。…
※「磐城平藩」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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